作家と批評家を区別する意味は分かるが、しかしそのことに大きな意義はないだろう。なぜなら、すべての表現は必ず過去の作品と繋がっていて、たとえば、ある音楽の影響で新曲という作品が生まれるか、評論という作品が生まれるかの違いでしかないからだ。
作家がゼロからオリジナルの作品を生みだす存在で、批評家は先行する何らかの対象あって成り立つ存在と考えるのは、あまりにも素朴と言える。そもそも作家だって批評家同様に、先行する作品があるから新作を作れるのだ(すべての創作は、必ず模倣から始まる)。そして批評家も「評論」という作品を生む作家であり、その評論が批評対象(作品)の価値を超える例や、また評論が新たに音楽や小説などの作品を生み出す例はいくらでもある(さらにすべての作家もその作品を通して批評家の役割を果たしているとも言える)。
批評家を厭う発言をする人は、評論という表現ジャンルに興味が無いことを表明しているにすぎない。もちろん、その価値観・その趣味自体に問題はない。しかしそのことはきちんと自覚しておくべきだろう。世の中にはくだらない評論が多いように感じるかもしれないが、それを言うなら、同じようにくだらない作品も多いのだから。
簡単にいえば、批評家と作家の違いは、料理を食べてその味に関してコメントをするか、こうすればさらに美味しくなると考えてキッチンに立つか。そういう違いだ。そこで食いしん坊は「おれは料理の感想や説明など求めていない。そんなものはいらない。とにかくもっとうまいメシを食わせろ!料理人以外はひっこんでろ!」と叫ぶし、まあその気持ちもわからなくもないが、しかしどちらも未来の料理に繋がってるのは確かだ。そして、いつもうまいものを食べて腹を満たすことばかり考えている食いしん坊は、時に「あらあら、卑しいわねえ(クスクス)」と笑われる、ということだ。つまり「くいしん坊!万歳」と声高に叫ぶのは、松岡修造のような選ばれし才人に任せておくべき、ということだ。
作家と批評家を分けるのは「自分にとってどういう風に役立つか」という点において違いがあるからじゃないですか? 随分と傲岸不遜な態度だけれど、とはいえまた、作品に対して「自...