同意するところが多かった。
お互い、フェアに図々しくありたいな。ほんとに。アサーションしたい。
権利を主張することは図々しいことだ。しかし、それよりも更にずっと図々しいのは、「自制せよ、謙虚であれと他人に求め、権利の主張をさせない」ことだ。
もちろん、権利を主張していいんだったら、その主張を認めないということもあっていい。
しかし、主張の却下はあくまで、「主張をよく聞き、それが妥当か否か議論した上で」行われるべきだ。
同じ社会に生きる他人の主張を封じ込め、一切聞く耳を持たない。そんなのは対話の放棄であり、それこそ「社会人」として、最も恥ずべき態度ではないだろうか。
とか
今、私たちが享受している権利のほとんどは、図々しく生きたご先祖様のおかげである、とも言える。
だとしたら、「図々しさ」というものに少し位感謝してもいいかな、と私は思うわけで。
その人の主張に賛同するなら、この閉塞感を少しでも打破するためにも、ぜひ応援してあげてほしい。(社会運動は起こすには、最初のフォロワーが大事だと聞く)
については、わたしは同意できなかった。
個々人が「わたしはこのひとのいうことに賛同する!」と自由に発言するのと、その発言に「閉塞感の打破」「応援してあげる」といった変革への意志が伴うのとは、まったく別の話になると思う。
これについては、それこそ、「援護射撃してください」という「当事者からの図々しいお願い」の過程を、キッチリ踏むべきだと思う。
社会運動って、ある意味「利害関係や価値観の戦争」みたいな側面を持ってると思う。戦争するなら、当事者側には事前にある程度の覚悟と計算(勝算、メリット・戦果)が要るし、当事者にその意志がないまま周囲が勝手に社会運動化してしまうのは、「当事者に益なき高リスク」ともなりかねない。
当事者(少数者のメリット)を犠牲にしてでも、社会(多数者のメリット)を良くすべき(高めるべき)、と考えるひとも少なからずいると思う(自分がその「当事者」にならない限りは、ね)。その考えにも一理あると思う。
でも、わたしはそういうの、絶対、絶対、嫌だ。
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