2013-05-21

権利を主張することは図々しいことだ

なぜなら、権利には義務が伴うからだ…なんて言うと怒られそうだけど、実際「図々しい」ことに間違いは無いと思う。

だって、「私のある権利を認めさせる」ということは、「(私がその権利を行使できるように、)他人に何らかの義務を負わせる」ということでもあるわけだから

そういう意味で、全く図々しくない権利の主張というのはあり得ない。

から権利を主張するな、ただただ謙虚であれ…なんていうつもりはもちろん無い。

しろもっと「図々しく」なってもいいんじゃないか、(特に弱者は)完全に「謙虚に」生きることなんて不可能なんだから、と言いたい。

他人に全く迷惑をかけずに、社会で生きていくことはまず不可能だ。もし一切他人に迷惑をかけたくないなら、死ぬしかない。(死なれても迷惑だ、とか言われそうだが)

特に弱者は、謙虚になり過ぎると生きていけなくなる。実際、「心苦しさ」から生活保護を辞退し、母と心中しようとしたというニュース最近あった。

権利を主張することは図々しいことだ。しかし、それよりも更にずっと図々しいのは、「自制せよ、謙虚であれと他人に求め、権利の主張をさせない」ことだ。

もちろん、権利を主張していいんだったら、その主張を認めないということもあっていい。

しかし、主張の却下はあくまで、「主張をよく聞き、それが妥当か否か議論した上で」行われるべきだ。

同じ社会に生きる他人の主張を封じ込め、一切聞く耳を持たない。そんなのは対話の放棄であり、それこそ「社会人」として、最も恥ずべき態度ではないだろうか。

他人に過度に謙虚さを求める人は、それが如何に厚かましい行いか、得てして無自覚であったりする。弱者弱者謙虚さを押しつける場合は、特にそうだろう。

ただ、強者弱者謙虚さを押しつける場合は、その厚かましさを承知の上でやっているかもしれない。もちろん、厚かましく見えないよう偽装して、だけれど。

謙虚さは確かに美徳だ。ただし、謙虚であれと求められるべきなのは、声を上げて権利を主張する人ではなく、他人の口を塞ごうと躍起になっている厚顔無恥な連中に対して、であろう。



なんだかんだ書いてきたけれど、それでもやっぱり図々しくはなれないという人の気持ちは分かる。(つもりだ)

実際、自分もなかなか図々しくなれないし、無理になるものでもないと思う。(そんなこと言ってると、「お前は飼いならされている! もっと声を上げろ!」とか怒られそうだ)

それに、声を上げても無駄なんじゃないか、という無力感・閉塞感に日本社会全体が支配されている現状もある。

図々しくなれというのも、実は無理な話なのかもしれない。

だったらせめて、皆図々しくはならなくとも、厚かましくはならないでほしいなと、私は思う。

自らは特に主張はせずとも、数少ない声を上げている人の主張には耳を傾けてみてほしい。

その人の主張に賛同するなら、この閉塞感を少しでも打破するためにも、ぜひ応援してあげてほしい。(社会運動は起こすには、最初フォロワー大事だと聞く)

もちろん、聞いてみた結果その主張が嫌だと思ったら、「あなた権利のために、そんな義務を負わされるのは御免だ」と言ってももちろん構わない。

とにかく間違っても、他人の口を塞ぐような真似だけはしないでほしい、そう思う。

最後に。

今、私たちが享受している権利ほとんどは、図々しく生きたご先祖様のおかげである、とも言える。

だとしたら、「図々しさ」というものに少し位感謝してもいいかな、と私は思うわけで。

  • 同意するところが多かった。 お互い、フェアに図々しくありたいな。ほんとに。アサーションしたい。 権利を主張することは図々しいことだ。しかし、それよりも更にずっと図々しいの...

  • サミュエルソン先生に感謝しつつ公共財というものについて勉強してみましょう。 公共財 - Wikipedia 公共財(こうきょうざい)は、経済学の用語であり、通常、非競合性あるいは非排除...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん