なぜなら、権利には義務が伴うからだ…なんて言うと怒られそうだけど、実際「図々しい」ことに間違いは無いと思う。
だって、「私のある権利を認めさせる」ということは、「(私がその権利を行使できるように、)他人に何らかの義務を負わせる」ということでもあるわけだから。
そういう意味で、全く図々しくない権利の主張というのはあり得ない。
だから権利を主張するな、ただただ謙虚であれ…なんていうつもりはもちろん無い。
むしろ、もっと「図々しく」なってもいいんじゃないか、(特に弱者は)完全に「謙虚に」生きることなんて不可能なんだから、と言いたい。
他人に全く迷惑をかけずに、社会で生きていくことはまず不可能だ。もし一切他人に迷惑をかけたくないなら、死ぬしかない。(死なれても迷惑だ、とか言われそうだが)
特に弱者は、謙虚になり過ぎると生きていけなくなる。実際、「心苦しさ」から生活保護を辞退し、母と心中しようとしたというニュースも最近あった。
権利を主張することは図々しいことだ。しかし、それよりも更にずっと図々しいのは、「自制せよ、謙虚であれと他人に求め、権利の主張をさせない」ことだ。
もちろん、権利を主張していいんだったら、その主張を認めないということもあっていい。
しかし、主張の却下はあくまで、「主張をよく聞き、それが妥当か否か議論した上で」行われるべきだ。
同じ社会に生きる他人の主張を封じ込め、一切聞く耳を持たない。そんなのは対話の放棄であり、それこそ「社会人」として、最も恥ずべき態度ではないだろうか。
他人に過度に謙虚さを求める人は、それが如何に厚かましい行いか、得てして無自覚であったりする。弱者が弱者に謙虚さを押しつける場合は、特にそうだろう。
ただ、強者が弱者に謙虚さを押しつける場合は、その厚かましさを承知の上でやっているかもしれない。もちろん、厚かましく見えないよう偽装して、だけれど。
謙虚さは確かに美徳だ。ただし、謙虚であれと求められるべきなのは、声を上げて権利を主張する人ではなく、他人の口を塞ごうと躍起になっている厚顔無恥な連中に対して、であろう。
なんだかんだ書いてきたけれど、それでもやっぱり図々しくはなれないという人の気持ちは分かる。(つもりだ)
実際、自分もなかなか図々しくなれないし、無理になるものでもないと思う。(そんなこと言ってると、「お前は飼いならされている! もっと声を上げろ!」とか怒られそうだ)
それに、声を上げても無駄なんじゃないか、という無力感・閉塞感に日本社会全体が支配されている現状もある。
図々しくなれというのも、実は無理な話なのかもしれない。
だったらせめて、皆図々しくはならなくとも、厚かましくはならないでほしいなと、私は思う。
自らは特に主張はせずとも、数少ない声を上げている人の主張には耳を傾けてみてほしい。
その人の主張に賛同するなら、この閉塞感を少しでも打破するためにも、ぜひ応援してあげてほしい。(社会運動は起こすには、最初のフォロワーが大事だと聞く)
もちろん、聞いてみた結果その主張が嫌だと思ったら、「あなたの権利のために、そんな義務を負わされるのは御免だ」と言ってももちろん構わない。
とにかく間違っても、他人の口を塞ぐような真似だけはしないでほしい、そう思う。
最後に。
同意するところが多かった。 お互い、フェアに図々しくありたいな。ほんとに。アサーションしたい。 権利を主張することは図々しいことだ。しかし、それよりも更にずっと図々しいの...
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