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2017-05-19

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

目次 [非表示]

1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

2013-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20130404220447

ちょっと横道に逸れるが、「義務感」がだんだん消失していってるのは「今の」日本人感覚だろうな。

お歳暮お中元年賀状、少しずつなくなりつつあるけれども、「お金が掛かって意味がないからやめましょう」とメディアを通して声が掛かるまで、

止めようにも思い切って止められない状況だったんだよな。

誰もが、一生の節目などでお世話になった(例:仲人就職口利き)ので、ちゃんとお礼をしないといけない。貰った厚意を返すのは当然で、返せないのは不義理で恥ずかしいことだった。

そういう大事もなく、お金もなければ、同じ年代の子どもがいる世帯同士をメインに年賀挨拶回りをした。昨年、ご近所づきあいをしてもらったお礼だ。

その時、子どもお年玉をあげるからということで、お歳暮を省く。翌日に、お年玉をくれた家の子どもに、同額のお年玉を出して、その家庭同士はプラマイゼロで済む。

これは別に特権階級の話じゃないよ。

年賀状は遠方へのお年賀回りを省いた物で、これすらもったいないと思うのはどうなんだと、今自分で書いていて驚いたぐらいの現象だ。

もちろん、仲人だとか媒酌人とか、今の世相で存在しなくなった事があったりするんだけど。

 
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