題名の通りだ。ネット環境という文字でのコミュニケーションが多い環境だからこそなのかもしれないが、気にしなくていいような誤用が気になってしまう。
例えば、「~しないわけにはいかない」の意味で用いる「~せざるを得ない」を「せざるおえない」「せざる負えない」「せざるえない」と表記するだとか。「または」「あるいは」等の意味で用いる「もしくは」を「もしくわ」と表記するだとか。気になる誤用を延々と……そうそう、「延々と」もそうだ。「永遠と」と表記する人をよく見かける。
話を戻して。自分でどの誤用が苦手なのか、どの誤用なら問題ないのかを考えてみたものの、共通点がてんで分からない。「せざるおえない」「もしくわ」「永遠と」「そうゆう」「~しずらい」は気になるのに、「こんにちわ」「全然大丈夫」は大丈夫だし、ら抜き言葉もそこまで気にならないのはなぜなのか。ら抜き言葉が気にならないのに縦書きの文章を左から右に読ませるものが気になってしまうのはどういった理屈なんだろう。
別にこれで自分だけが気にして少し嫌だな~ともやもやするだけなら別にいい。いや、正直なところを言えば嫌ではあるのだが、自分だけで完結するし自衛もできるだろう。気になる誤用が出てきたなろう小説はそれ以上読まなきゃいいし、気になる誤用を扱う切り抜きチャンネルは見なければいい。
だが、自分は大層厄介なことに、どうしても気になって声を上げてしまいたがる性質だ。このように。今こうしてここに書いてしまっているように。普段SNSやらで友人達と交流する時だって誤用が気になって仕方がない。もちろんそんな誰彼構わず指摘しているわけでもないし、親しくなった友人にだってなるべく言わないようにしている。言ってしまったこともあるが、苦手なものを聞かれた時に「そうゆうとかもしくわとか、そういう感じの誤用が苦手かも。使うなとは言えないけど」程度の回答に留めていたように思う。とはいえ、使うなとは言えないと言ったにもかかわらず、友人の誤用が気になり段々嫌になって自分から距離を置いてしまったこともあるから、これも最善ではないのだろう。
そんな中、先日、ついに別の友人に「その表記は誤用だよ」と指摘してしまった。「『延々と』と『永遠と』は全く意味が違うよ」と、ついに声を上げてしまった。友人は心優しく、自分のこんな狭量な発言に対して謝罪をしてくれた。気分は全く晴れない。口語表現となんとなくのノリで生きてきてしまった、言葉を扱うのが昔からずっと下手だった、と友人は続けて零していた。気分は全く晴れず、それどころか落ち込んだ。
言い方が悪かった。このことに関しては間違いはないだろう。けれど、どう言ったらよかったのだろうと考えてしまう。そもそもとして友人たちは好きなように言葉を使っただけであって、その言葉を見て自分が一方的に気になってしまっただけなのに、自分が何かを言う必要なんてないだろうに。言わないほうがよかったのかもとも思っているが、言わないなら言わないでまた自分から距離を置いておしまいだろう。見ただけで集中力が切れ、見続けるだけで段々気落ちしていくのだから、言わないままというのもきっと自分の精神衛生上よくない。
誤用が気になってしまう。誤用が気になってしまう自分に嫌悪感を抱いてしまう。言語は移り変わっていくものだと分かっているつもりでも、移り変わっていく過程で生じた誤用であり数百年後には正しい表記になっている可能性もあると理解しているつもりでも、それでも気になって気分が悪くなったり気分を悪くさせたりしてしまう自分に嫌悪感を抱いている。
「手当」もみんなが「てとう」と読み続ければ、いずれその誤用も常識へと変わる。
仰る通り。それも分かった上で気になってしまう自分に嫌悪感を抱く、という話で。
セザンヌ負えない
書いてある限りの情報でいえば、 友人と仲が悪くなったわけでもないし、問題は何も起きていない。 強いて言えば問題は何も起きていないのを増田自身が分かっていないのが問題。
あんまり参考にならないかも知れないけど、校閲のバイトでその欲を発散させてる
その手があったか。目から鱗が落ちたよ、ありがとう。