2021-09-11

表現の自由毀損しているのはどっちか

松戸警察署Vtuber問題について、アンチフェミニストに腹が立ったのでここに書く。

警察署玄関水着女性ポスターが貼ってあったら、「女性の裸を公共広告に用いるのはTPOに反しているし、女性差別的ではないか」という批判には、ほとんどの人が共有するだろう。同じように、萌え絵水着ポスターと同じカテゴリー公共広告に相応しくないのではないか、という違和感に基づく意見感性の人は一定存在する。そしてその違和感公共的な声にして、政治を通じてを変えていこうとする運動が起こることはのまったく正当な権利であり、まさに日本自由民主的社会であることの証である

いうまでもなく、自由民主的社会である以上、フェミニストの抗議を「誤解」「無理解」として批判する声は当然あってしかるべきであるしか批判者はなぜか、公共広告に対する批判を「表現の自由否定」などと批判してしまうので、根本的に議論が間違った方向に進んでしまう。しかも「価値観が古い」とか、「古い」ことがただちに間違っているかのような、その人の主観を無根拠絶対化した論法を多用している。どうやら批判者たちは、「古い価値観」なるもの尊重に値せず、みんなで否定して嘲笑し合うような社会がいいと思っているようだ。百歩譲ってそうした主張を認めるとして、そんな社会自由民主的社会であるとは到底思えない。

公共的な表象として国旗という分かりやすい例を出せば、「日の丸日本国旗に相応しくない、変えるべき」という主張があってはならない、という人は(一部の極右以外は)いないだろう。それは表現言論の自由である。ところが、なぜか批判対象が「萌え絵」になった途端に、この原則が完全に無視されて、同様の性質を持つ主張が逆に「表現の自由否定」と批判されている。そして、表現の自由行使しているフェミニストたちを、表現の自由否定する人々として批判し、SNS大炎上させている。これはとんでもないことであると思う。公共的な広告物や表現に対する批判を萎縮させる効果を持つものであり、表現の自由毀損するものに他ならない。

  • これが正しい主張のやり方だと言って批判できなくするいつものネトウヨの手法

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