2021-03-15

私が6才の時に遭遇した最悪な差別

私が6才だから、大体昭和の末期くらい。

その頃小中学校教師から理不尽な罰があったのは今でも知っている人は多いけれど、保育園にもあった。

全国的かはわからないけど、少なくとも私が通っている保育園にはあった。

色々ありはしたのだけど、一番痛烈だったことを書く。

その保育園は園の方針先生独断かはわからないけれど、給食時間内に食べ終わらないと罰を受けた。

私は食べるのが遅くて、年長になるともうあらかたの罰を受けきっていた。

年長の園児が恐れていたのは

「下の年のクラスでのお昼寝」

だった。確かに小さい子、特に2才児クラスあたりと寝ると、自分まで赤ちゃん扱いされそうで嫌だな、と思っていたが、先生がそうしろというならするしかない、と乳児を抜けたばかりの子たちと一緒に寝たりした

ただ、私は昼寝で熟睡できないタイプだったので、2時間ずっと気まずさを感じてはいた。

ある日、給食を残す常連の私ともう一人、あすかちゃんという女の子の2人がやっぱり時間内に食べきれなかった。

その時、多分先生は虫の居所が悪かったのだと思う。

増田ちゃんあすかちゃんは養護組に行ってお昼寝しなさい!!」

と怒鳴った。

園には中程度の身体知的障害児が集まる養護クラスがあって、そこでお昼寝をしろということだ。

6才の私には、実は障害者という概念がなく

自分クラスの子とは全く異なる変な姿でよくわからないけど、保育園に来てる子」

認識していた。

養護組は冷暖房完備だったし、カーペットが敷いてあっから今日は快適な場所で寝られるなあ、と思った。

あすかちゃん号泣しだして、養護組は嫌だー!って叫び、それを無理やり先生が手を引っ張り、あすかちゃんはそれに抵抗した。

私は、その姿を見ながらタオルケットの入った巾着袋を背負って、養護組に入ってお昼寝をした。養護組の先生たちは優しくて好きだったし、教室の窓が大きく取られていて、部屋が薄暗くなるように少し濃いめのカーテンが引かれていた。それが風でヒラヒラするのを見ながら、ここは居心地がいいな、静かだな、と思った。

その数日後。

私が砂遊びをしていたらば、近くで私の担任を含めた3人の先生雑談していたのが聞こえてきた。

担任先生

増田ってばさー、他のクラスで昼寝しろって言っても自分で行っちゃうの。この前なんて養護組で昼寝しろって行ったのに、何にも言わず自分タオルケット背負ってすたすたってさぁ」

と嫌そうに言っていた。

私は大人どうしで悪口を言うとは知っていたけれど、まさか子供のことを、更には受け持っている子の悪口を言うのか、と思ってびっくりして、それから、私はそんなに嫌われるようなことをした?と悲しくなった。

時は過ぎて成人式

養護組の同い年で、当時は四つん這いになって歩いていた男の子、つよし君が車椅子で来ていた。

彼が私のことを覚えているかはわからないけれど、近くにいたので何とはなしに手を振った。

その瞬間、ようやく、14年越しに理解したのだ。

担任先生が、養護組でのお昼寝を最も重い罰として私たちに命じた。

あすかちゃんはその意味理解していたから、泣いて抵抗した。

その根底には「健常者は障害者に混じることを嫌がる」がある。

私はそれに全く気づかないでいたから、あとで先生に嫌がられた。

それらが全て繋がった時に、つよし君や養護組になんて扱いをしてるんだ、先生って職業が何故差別助長や利用するんだ、何故あすかちゃんは私のわからなかったそれをわかっていたのか、いや、私がそれに気付くのが遅かっただけなのか。

6才の時のつよし君は、手を握って這っていた。

養護組の先生

「つよし君はね、喋れないけどみんなの言うことはわかっているのよ。いっぱい歩くからね、手の皮がとってもかたいの」

と言ったので、彼の手の関節を触らせてもらった。

軽石かというくらい、かたくてザラザラしていた。

うわーすごいねー、と無邪気に驚いた。

あの当時、私だって悪知恵も小賢しさもおマセな部分もあるガキだ。

障害者というものを知らなかったかからだとしても、あの光景は鮮明に覚えているし、忘れないし、それに怒ったり胸糞悪くなっていたりしたい。

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