2014-08-04

そもそも人を殺してはいけないのか

最近、人を殺してはいけない理由について、色々な人が色々な事を言っていて、「なるほどなぁ」と思う意見もあるけど、どれも根本的なところで間違っていると思う。

そもそも、突き詰めて考えれば、人を殺してはいけない理由なんてないのだ。

たとえば、「人を殺してもよいとすると、社会崩壊する」みたいな意見をみかけたけど、so what

そんなのはあくま社会の都合であって、「社会なんて知ったことか」と思っている個人にとっては、他人を殺してはいけないという根本的な理由にはならない。

では倫理的にはどうか。「命は地球より重い」、だから殺してはいけないのだ、という議論をよくみかける。また、「殺される人やその家族の気持ちを考えろ」なんて意見もある。

でも、このように倫理的観点から「人を殺してはいけない」という意見を持つ者でさえも、一定場合には殺人を認めるだろう。

例えば、死刑制度国家的殺人に他ならないし、正当防衛で、ナイフで刺しかかってきた強盗に対しバットで対抗して殺してしまうことを悪と考える人比較的少数派だと思われる。

まり倫理的に「人を殺してはいけない」というのは、「一定場合に人を殺してはいけない」と言っているにすぎず、純粋に「人を殺す」ということを禁忌としているわけではないのだ。

そして、「一定場合」等というものは時と場合によっていくらでも変わりうる。

このように考えていくと、「人を殺してはいけない」というのは、社会から罰を受けたくないなら人を殺してはいけない、といった条件付きの命題にすぎないことがわかる。

もちろん、多数派は、「社会崩壊したら困る」と思っているし、だからこそ殺人には厳罰が設けられている。

また、仮に社会的な罰が課されないようなシチュエーションにあったとしても、ほとんどの人は、理由なく他人を殺したりはしないだろう。

しかし、それと人を殺してはいけないかどうかとは、別の話だ。

本当に「人を殺してはいけない」というには、例えば「神様(仏でも、大宇宙でも、なんでもいい)が『人を殺してはいけない』と定めたから」等、これ以上「なぜ?」と問えない絶対的ものを持ち出すしかないだろう。

まあ、こんな極論自体So What?なわけですが。

そんじゃーね

(追記)

論理的には、絶対的な何かを持ち出さない限り「人を殺してはいけない」とはいえない(この論理は、「人は●●をしてはいけない」という命題ほとんど全てにあてはまる)が、これを乗り越えるのが社会的な繫がりと共感力想像力である

なぜ、ほとんどの人は、別に社会的な罰等なくても、理由無く他人を殺したりしないのか。逆に、なぜ社会的な罰があっても殺人が起こるのか。

答えはそこにあるように思われる。

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