2013-02-26

社畜

blogへ、というわけではないんだが、そのblogを含む周辺文化への違和感メモる。

色々かんがえたんだが、その違和感の中心はどうも

「お前らはもっと労働を減らして人間らしい生活をしようといっているが、そもそも日本(他の国へ置換も可能)はそれを許容できるのか?」――という感覚のようだ。

「月に10日くらいはたらいて、手取り18万で良いです」というのは簡単だし、そんな事言いたいヤツは沢山いるだろうが、それはなかなか現実マッチングしない。なぜか?

「月にx時間くらいはたらいて、手取りy円で良いです」というような希望国民全員に述べてもらい、その希望を合計したときに、日本はその希望を叶えられるほどの豊かさを持っていないのではないか? と思うのだ。

十分な豊かさを持っていないのだから、その本人の望む待遇と本人の能力バランスの良い人間からポストアサインしていくのは当たり前の事象だろう。

まり、冷酷な言い方をすれば「自分ポストに不満を持っていて、それが現在かなえられていない人間は、全員野心が不相応にでかい無能だ」と言うことに他ならないのではないか

日本はその希望を叶えられるほどの豊かさを持っていないのではないか?」が真であるならば、個人の待遇というのは所属する企業の、ひいては日本生産性および豊かさと密接に関わっていることになる。むしろ原理的な意味では、個人の豊かさの総体が国の豊かさであろう。脱社畜blogにたいして感じる違和感の源泉はそれだ。

社畜脱出格差是正を訴える」割にそれは個人の願望にとどまっていて、周囲を豊かにしようとはまったくしないところだ。「周囲を豊かにしよう」とかいうと「社畜根性」などとうそぶいて逃げるけれど、人間社会的動物なので、豊かな社会がないと豊かな個人生活がおくれないのだ。そもそも「周囲を豊かにしよう=企業への滅私奉公社畜」みたいな論をふりかざすなら、滅私奉公しなきゃ周囲に貢献できないような程度の生産性が低い人間無能なのだ。そんな無能なヤツが脱社畜フリーランスになって食っていけるかどうかなんてかんがえればすぐわかるだろ?

ギャングではないが「転職したい」「脱社畜したい」「脱社畜しようぜ」と言ってる時点でダメなのだ。そんな事を言ってる時点で逆説的に社畜以外出来ないという自己紹介になってる。

転職した」「脱社畜した」なら表明してイイ。

それを皿に敷衍すれば、脱社畜blogというのは、脱社畜成功した人間が、未だ成功していない同胞に向かって優越感ゲームで高射砲をうってるだけだということになる。

上記の疑問が、俺があの界隈に感じている違和感のすべてだ。

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