2013-02-21

初音ミクは己れの自己表現の一手段だった」

と言い換えても違和感ないよね。

懐古厨団塊

「俺たちオジさん(オバさん)には今、歌う歌もなければ、聴く歌もない!」

http://bylines.news.yahoo.co.jp/tomisawaissei/20130216-00023503/

に噛み付いてるブログ

青春時代彷徨い続けるオジサンが大人の音楽を騙るなんて、ちゃんちゃらおかしい」

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20130220/p1

両方読んで、人間って結局自己中だからそう思うのも仕方ないんじゃね?と思った。

はるかから繰り返されてきた、昔はよかった症候群ひとつだし。

口ではなんとでも言っても、なんだかんだで自分がいいと思ったものをいいと思い続けたいというのは別に悪いことじゃないだろう。

他人に押し付けるのは別としても。


ボカロ厨じゃないけど、仮にボーカロイドに当てはめて冒頭の団塊の記事を書き換えたらこうなる。

歌は歌であって、実は歌ではない、という時代があった。もう30年以上も前の〈初音ミク〉のことだ。その時代初音ミクは歌であって、実は既成の意味での歌ではなかった。どういうことかというと、スタイルはあくまで歌だが、それを超えてしまう“何か”があったということだ。換言すれば、歌は己れの自己表現の一手段だったということでもある。かつて初音ミク時代は、歌とはそういうものだった。歌にボカロPの生きざまそのものが反映され、聴き手である私たちは歌を聴いてボカロPの〈生きざま〉に共感を覚えたのだ。ところが、年月は流れ、歌そのものが変わってしまったように思えてならない。いや、ボカロPも聴き手も、歌に対する考え方が変わってしまったという方が適切だろうか? 歌のスタイルはかつての初音ミク一辺倒の時代から鏡音リンレン、巡音ルカMEIKOKAITOなどと多様化したが、そんな中で歌は、一口で言うなら“たか音楽”になってしまった。でも、それは「歌は歌としての“純粋性”を取り戻した」というパラドックスでもある。しかし、と私は考えてしまう。いくら音楽性があったとしても、内容の希薄な歌が本当に歌なのか、と。



初音ミクボーカロイドは、私たちが作りだしここまで育ててきた〈私たち世代の歌〉だったのではないか。変にカッコウなどつけずに、素直な気持ちで自分の胸のうちをさらけ出して現在の〈人生〉を堂々と歌って欲しいものだ。私たちはそれを待ち望んでいるのである。かつてXXXX(※ボカロPの名前)が私に語った言葉が胸に深く刻みこまれている。

「今ぼくがやってることが、初音ミクなんだと思う。この頃、つくづく思うことは、ぼくが生きていること、それ自体がメッセージだってこと。この年になって、まだ現役で動画を作って、いろんなサイト投稿して。お客さん、たくさん集めて、それで頑張っている。ぼくのそんな生き方のものメッセージだと思う。言葉メッセージするんじゃなくて、生き方メッセージする。それでいいんじゃないかと思う」



汎用性あるコピペになりそう。

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