「過去形」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 過去形とは

2009-12-27

http://anond.hatelabo.jp/20091227215540

それ 過去形じゃないって事だよな…

「災難ですね。頑張ってください」と言われたほうがいいのだろうか…

黙ってた方がいいよな

民生委員の有難いお言葉

我が家にも第一子を授かった訳ですが,生まれつき重度の心疾患で,やっと自宅に一時退院でき,年末家族3人で過ごせそうな状況です。

でもって,うちの市では子供のいる家庭には地域民生委員が訪ねてきて,いろいろと相談に乗ってくれるという事らしいのですが,今日来て早々「子供さんの病気は災難でしたね」とか言うわけですよ。災難なうえに,過去形ですか。ひどいもんだと思います。

2009-12-07

彼女をつくるのはめんどうだけど、SEXしたい。

彼女は欲しいけどキミじゃない、でもSEXしたい。

そんなひとが好きだった。必死に過去形にしてるけど。

半ばヤケになってぜんぶ壊した。

彼は飄々としている。予想通り。

共通の友人が多いけど、誰も私たちの関係性に気付くひとはいないし

気付かせないようにもしてきた。お互いに。

誰かに吐き出したい。ぶちまけたい。

そうできないようにしたのは私だ。自業自得

だけどツラい。泣けない。

バカでクズ喪女恋愛するなよ・・・なに期待してんだよ・・・

2009-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20091016032319

元増田です。コメントありがとうございます。

デモデモダッテにならないように気をつけて書いたのですが、デモデモダッテになってますか・・・、ちょっとショックです。認めないといけませんね。ありがとうございます。

「妻の気持ちがわからない」ということで相談させてもらっているのに私が思う妻の気持ち(おそらくはずれなのですが)を書かないのも確かに変ですね。書いてみようと思います。起こったことの説明には事実だけを書いたほうが良いのではないかと思いそうしたのですが、私の行動の理由や(私の)妻の気持ちの推測を説明するには以前のことやもうちょっと間に起こった細かいことを書かないと説明できないので付け加えます。「後だしじゃん」と思われてしまったらごめんなさい。そして長文になります・・・。

まず、咳についての以前の出来事の説明です。まず、私は咳喘息をもっています。ストレスがかかると咳が1ヶ月も2ヶ月も止まらなくなります。妻は機嫌が悪いときに「どうして咳が直らないの?」「私がすぐ怒るし悪い嫁だから咳が止まらないんでしょ!」と何度もいっていました。確かに今と同じように妻とのことでストレスがかかって咳が出ていたのではないかと私も思っているし、私がそう思っていることを妻も見透かしていた(と思う)ので、私が咳をすることが妻に罪悪感を抱かせることになっていたのだと思います。

で、娘も咳をするようになりました。私と同じだ、と妻は感じるんだと思います。娘が食事中にふざけていて、それを妻が叱ることがありました。すると、それまで咳をしていなかったのに急に娘が咳をしだした、と妻は思ったのだと思います。私に言っていたのと同じように「どうして咳が出るの?」「私が怒るから?」「さっきまで咳してなかったじゃない!」と娘にきつく詰め寄り、娘は単に咳が出ただけなのに妻がさらに怒り泣く・・・ということがありました。私から見ると、娘はずっと咳をしているだけで、特別妻が怒ったから咳がでたようには感じませんでした。「咳=自分が責められている」というように感じてしまう条件付けのようなものが今の妻にはあるように思っています。このようなことがあったので、妻はもしも病院に娘を連れて行って、医者に「ストレスが原因の咳ですね。」なんていうことを言われたら、医者にまで悪い親認定されてしまう、というように感じているのではないかと思います。

そしてこれは私が悪いのですが、私がいつも妻に「怒らないで」ということを言うので、娘も「お母さん怒らないで」と言うようになっているのです。妻がちょっと機嫌がわるくなるとそれを感じ取って「お母さん怒っちゃった?」と聞きます。妻が本当は怒っているときでも必ず「怒ってないよ」と答えます。そういう時は娘は悲しそうな顔をして「お母さん怒らないで・・・」と言います。たまに本当に怒っていないときがあります、そういうときには娘は笑って「お母さん怒ってないって!よかったぁ~!」と喜びます。私はめったに怒りません。妻は頻繁に怒ります。怒りたくて怒っているわけではもちろんありません。でも、怒ったことを夫にも娘にも非難されます。妻はつらいだろうと思います。二人も子供を抱えて専業主婦ではストレスたまることは多々あると思います。

でも、「子供が沢山ほしい」「専業主婦をしたい」というのは妻の強い希望なのです。さらに「土いじりのできる一戸建てにすむ」というのが妻の夢で、今はどれもかなっています。もちろんお金が必要なことですから、私がかなえてあげた・・・とも言える状況になっています。しかも私はもともと子供は二人が希望でしたが、妻の希望で3人を予定しています(ここでも2年ほどの議論がありました)。一戸建てに関しても私は反対でしたが、嫁の希望を私が受け入れる形になりました(ここでも数年の議論がありました)。だから「夢をかなえてもらっているのに文句は言えない」という気持ちも妻にはあると思います。でも、実際にはストレスたまる、夫にも娘にも怒るなと言われる。言葉だけでなく、咳でも責められる。そういう状況ではないかと思っています。

このように私は理解しているので、妻を刺激しないように、常に気をつけて行動しているわけです。(でも残念ながら「つもり」なわけです・・・)

ただ、私がそれでもやはり妻に要求したいのは「できれば怒らないでほしい、怒ったとしてもきちんと理由を言ってほしい」ということなのです。(正確には現時点では「だった」と過去形になっているのですがそのときはそうでした)なぜなら話せばわかりあえると思っているからです。(勘違いの可能性が高いです。)

ほかにもバックグラウンドはあるのですが、ここではこのくらいにしておきます。

「はじめからバックグラウンド含めて書けよ!」といわれてもしょうがないと思います。すいません。が、純粋に言動の事実だけを並べてそこから意見を聞いてみるというアプローチの方が私の希望するアドバイスを得られると思い、もともとのように書きました。

ここから行動の際に自分が何を考え、自分が妻の気持ちをどのよう考えていたかを書きたいのですが、時間がかかりすぎて遅くなりすぎてしまったので今日はここまでにします・・・。中途半端すみません

2009-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20091013152151

つきあうまでは優しくて仕事の出来るいい人だったんだよ(過去形)。イケメンではない。

2009-10-12

http://anond.hatelabo.jp/20091012105920

選択は過去におこなわれていて

その意思確認なんだから過去形いいんじゃないの?

「○○ってさっき言ったよね」的な押付けは感じるけど。

http://anond.hatelabo.jp/20091010002215

過去形が問題なんじゃない

「よろしゅうございましたか?」なら違和感ないんじゃない?

「よろしゅうございますか?」と比べてどうだ。

「かった」+「です」はすわりが悪い。小学校低学年の作文のよう。

何々をして楽しかったです。うれしかったです。おいしかったです。みたいな。

ていうかおじさんは形容詞を丁寧にするときに「です」をつけるのは間違いと習った。

正しくは「美味しゅうございます」とするもんだと。大仰すぎて普段は使いにくいけどね。

2009-10-11

http://anond.hatelabo.jp/20091010002215

北海道弁過去形の言い方は、より丁寧な言い回しとしてごく普通に使われるから、なにがおかしいのかと思ってしまうなあ。

2009-10-10

http://anond.hatelabo.jp/20091010002215

はてなダイアリーからのトラックバックの仕方がわからなかったので、

こういう形にしてみました。

過去形で表現する丁寧さについて

http://d.hatena.ne.jp/minamikawa1981/20091010/1255153899

http://anond.hatelabo.jp/20091010002215

いきなり過去形で言われると、

承認を得てこれから合意を形成するプロセスを始める前に

勝手に合意がとれていることにされた気がするんだよ。

だから怒るの。

ムラ社会ならいいけどお互い知らない同士が基本前提の都内では

そりゃ怒られるんじゃない・

よろしかったでしょうか?」に不満を持つ理由

過去形なので事後承認という形に聞こえるのが気に入らないって事でしょ。

やった後に「よろしくありませんでした」とは答えにくいし、やった後に言ってもしょうがないので、結局同意しろということになる。

やる前に「よろしいでしょうか?」と聞けば、こうしてくれということが伝えられる。

http://anond.hatelabo.jp/20091010002215

これでも「よろしかったでしょうか」を認めない奴は何が不満なんだ!

NHK本日放送された「みんなでニホンGO!」という番組を興味深く見た。番組内容は、「街で使われている気になる言葉を集めて、背景や使われ方を徹底調査。その言葉日本語としてイケてる?イケてない?を国民投票」という形で100人のスタジオ観覧者にボタン投票させるというもの。

国民的ことばバラエティー みんなでニホンGO!

http://www.nhk.or.jp/nihongo/result/

で、3つ目のテーマに「よろしかったでしょうか?」という接客用語の是非が問われた。事前投票では9対91で完敗。正しくは「よろしいでしょうか?」だろ?ゴラァという意見が圧倒的だった。曰く、よろしかったでしょうか?と聞かれるだけで怒りたくなるほどイライラする、とのこと。過去形はおかしい!と。

それからNHKが取材したVTR。まずは学者意見から。

『 乱れた敬語とされている「よろしかったでしょうか」は文法的には全く間違っていない。「た」は婉曲表現であると明海大学井上史雄享受。NHK総合国民的ことばバラエティー みんなでニホンGO!」。』(上手くまとめてあったのでtwitterのつぶやきから引用http://twitter.com/irie_shin/status/4734565656)

文法的に間違ってない。というわけで次に、昔の童謡のレコードを紹介。その童謡の歌詞に、現在のことでも「た」を使ってる表現があることで昔から使われている言葉最近になって間違われたわけではない、と紹介。

最後に、地方方言に焦点を当てて、青森の婆ちゃんにインタビュー。人のうちを尋ねるときに、「○○いたかー?」と尋ねる婆ちゃん。普段から「た」を使った会話をしている、とのこと。「よろしかったでしょうか?」も全く違和感ない、という答え。

そしてナレーションで、「よろしかったでしょうか?」は婉曲的に丁寧さを表現する日本人の美徳だとかなんとか、でVTR終了。

しかしスタジオに戻ったら衝撃の事実が。全国の飲食店を調べた結果、なんと東京だけは全然使われていないことが判明。お店の広報NHK取材班が聞くと、「文法が正しいか正しくないか、ではなく、お客様クレームがあったから『よろしいでしょうか』で指導しています」との答え。言葉狩りが行われていた。


こういった経緯があり、再度スタジオ100人による投票。結果は30いくつか対60いくつかで、健闘するも「よろしかったでしょうか」の敗北。NHK的に国民日本語としては否決。

賛成に投票した青年バイトしてたときも丁寧に言いたいと思うほど『よろしかったでしょうか』と言ってしまう」

否決した松尾貴史は「文法的に正しくても『よろしかったでしょうか』が全国的に広まるのはおかしい」



・「た」を使っても文法的に間違っていない。

・昔から「た」を使う表現が使われていた。

・全国的に広まっている。

テレビ局の取材だけど、これでも「よろしかったでしょうか」を認めない奴は何が不満なんだ、と疑問に思う。俺もコンビニバイトしてたときに、自然に使ってて一部の客に激怒されたことあるけど、こんなのにクレームいれる客は頭狂ってるとしか思えない。しかも東京では言葉狩りが進んで「よろしかった」という言葉は使えないという。

これからは「よろしいでしょうか」が全国で蔓延してイライラする人がでそう。

2009-08-14

締まらない決めゼリフ

中学生英語の「過去形」を教えたら、

「じゃあ、『ポケモン、ゲット(get)だぜ!』は、

ポケモン、ゴット(got)だぜ!』 なんですか?」

って聞かれた。

…斬新です。

おじさん思わず、「それ、流行ってんの?」って聞いちゃったよ。

彼らのあたま想像以上にやわらかいようだ。

2009-08-10

俺には姉がいた

最近知った話なんだが、俺には姉がいた。

普段、姉萌えとか姉ファルファとか、姉が欲しかったとか言っていたが、

まさかこんな形で姉の存在が確認されるとは思わなかった。過去形なのは、

もちろん、この世にいないからだ。

いわゆる流産という形で俺とは会うことなく、その灯火を消した姉だ。

なんかすごい複雑な気分になって、どっかに吐露したくなったんだ。

なんでこんな事を話する機会があったかというと、俺の子が胎内死したんだ。

これはこれで大変だった。嫁も手がつけられないぐらい荒れた。そんな中で、

嫁にはかける言葉も見つからず、母親へ相談した際に話があった。ちょっとだけ

衝撃的だった。性別がわかってすぐに流産。それはそれは悲しく、大変だったと。

妻の方は漸く落ち着いたんだが、なんか姉の話がモヤモヤしてる。

聞いてしまった以上、墓があるにしろ無いにしろ、いつか姉の墓参りに行こうかと

思っているが、母と嫁の心境的には行ってもいいものだろうか・・・

2009-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20090807172637

あれは私がまだ大学助手をしていたころだから3年ほど前のことだと思う。

過去形で書いてあるのはクビになったからだろうか。

2009-07-28

小説家になりたい

 役に立たない駄文を書き綴りながらの息抜き

 僕は昔から小説家になりたかった。小説でなくとも、何か文章を書いてメシを食いたかった。

 世の中には物書きになりたいという人間が腐るほどいる。僕もその腐った残飯の中であることは違いないが、しかしその夢を捨てきれずにいる。

 今年、4月にある小説の賞に作品を送った。僕が生涯で完結させた小説では2作目となるものだった。今まで沢山の完結しない小説もどきは書き綴ったが、なんとか完成させたものではふたつめである。

 先日、1次選考の結果が発表され、稚拙な我が作品は何とか残ってくれた。僕の書いたひとつめの作品は、とある文学賞に投稿したのだが、そちらでは箸にも棒にもかからず、下読みの段階で落選してしまったわけだが、今回は何とか生きながらえてはいるようだ。

 こうやって、我が作品落選してしまうかも知れないというやきもきした気分で毎日を過ごしていると、何故自分小説家になりたかったのかを反芻せずにはいられなくなる。そもそも、僕にとって小説は本当に大事な存在であった。

 僕は小さな頃から父親に暴力を受けて育った。言動でも行動でも、つまりそのどちらにも暴力の力が伴っていて、僕は文字通り精神的にも肉体的にも鍛えられてきた。父親はアル中だが、この話には関係ないので省く。

 そんな鬱屈した毎日の中で、中学生くらいの時に本気で自殺をしようかと考えたこともある。自殺の方法をいくつか考えている内に、生きていることがくだらなくなってきて、同時に自ら死ぬことのくだらなさにも気付かされてしまい、感情が空白になってしまった。

 誰かと話していても、楽しくはなく。勉強ゲームに没頭していても楽しくはなかった。何だか、全部流れていくだけの白昼夢に思えて仕方がなかった。

 醒めてしまえば、全部が存在しないんじゃないか。なんて意味もなく思ってしまっていた。

 僕はそんな風にして、幼少期を過ごし、共に遊ぶ「友達」と呼ばれる存在もいくつか出来たが、だけど友達ってのが何なのかよく分かっていない。それは未だに理解が出来ない。

 辞書を引いてみれば友達というのは――親しく付き合っている友人。友。――だなんて説明されているが、『友達』なんて言葉を『親しい友』だなんて同意義としか思えない言葉で説明している辞書ですら、酷く滑稽に思えた。

 意味が分からなくなってきた僕には、本当に心が許せる友人は存在しなかった。過去形で表されているが、だが、今でも本当の意味での友人はいないのかもしれない。

 同時に、僕には本気で好きになったひともいなく、「ああ、もしかしたら彼女のことが好きなのかも知れない」と考えても、何故、好きなのか? と考えてしまうともう駄目で、顔が可愛いだとか、振る舞いが華麗だとか、性格が良いかも知れないだとか、そんな曖昧な理由で人を好きになってしまうなんておこがましくないのか? と勘ぐってしまう。こんな浅はかな理由で人を好きになるならば、別にその人じゃなくても良いハズだ。とも思う。

 もっとシンプルで良いハズだ――とも、確かに思う。好きだから、好きで好きで理由はないだとか、そんな風で本当は良いのかも知れない。

 そんな諸々の世界に対する訝しみ、この世界と付き合う方法を考える時には、どうしても脆弱であっても――言葉が必要だった。

 僕はある日、こんな恥ずかしい話はないだろうが、中学校の頃に学んだ夏目漱石の「こころ」の抜粋部分(確か授業中には抜粋部分のみだったはずだ)を読んで、初めて文章を読むことの意味に気付かされた。「大造じいさんとガン」を読んでも気付かなかったが、「こころ」で気が付いた。

 鮮烈でめまいがするような秀逸な筆致が、その頃の僕には酷く輝いて見えた。夏目漱石なんて、千円札でしか知らない人だったけど、彼が何かに煩悶しながら世間に訴えたいことがあるということは幼い僕にも分かった。それは幼少期の勘違いであったかも知れないがね。

 それからは、様々な小説を読んだと思う。世間の読書好きの人々には決して敵わないだろうが、それでも本は読んでいた。昼休みや授業中や帰宅後も、暇があれば読んでいた。

 ここでは、誰の小説を読んだとか、どこそこが良かったとか、そんな無意味なことをあげつらう気はない。ただ、僕が重要視したのは『本を読んで考えること』であった。

 だけど、間違いだったかもしれない。

 余計な言葉知識が頭に埋め込まれてしまったせいで、余計に僕は生きていく上で悩んだり、無意味さを噛み締めたり、そんな感慨を抱くことが多くなってしまい、なんて生きていくのは切ないんだ。と物思いに耽る中二病患者になってしまった。

 今は、社会人として仕事をしているが、自分が雇われている企業での僕のこなす業務というのは、僕以外の何者かが代行しても全く僕と変わらないレベルでやり遂げることが出来るのではないか、と思う。当然ではあるが、大抵の仕事はそうだ。

 地下鉄の駅を降りて、ホームからの階段を登り、世間の人々の波に埋没していたら、すごく自分が存在していないんじゃないか? なんて思ってしまう。

 恥ずかしいことだ。だけど、こんな風な思考回路を構築してしまったのは僕だ。僕が悪いのはよく分かっている。

 だから、そんな自分に対するセラピー意味合いもあるかも知れないが、僕は文章を書くことで精神の安定を得る。実際は何でも良い。文章だったら何でも良い。ブログを作って意味の伴わない単語を羅列したっていい、誰にも理解されない主張を標榜してもいい、だけど何か考えていないと、何か書いていないと、僕は本当におかしくなってしまうんじゃないかと、そう感じてしまう。

 だったら、もうそこまで来たら、僕は仕事をやめて、実家に帰ってニートをやって、インターネット世界に没入して、日々を食い潰して、そのまま死んでしまった方が良いのかも知れない。その方が、誰の毒にも薬にもならず、迷惑を掛けないまま、緩やかな自殺として完遂出来るかも知れない。

 だが、親に迷惑を掛けるのも嫌だ。これは我が儘に違いないが、僕は誰にも迷惑を掛けたくないのだ。自分以外の誰にもに、人畜無害な存在であり続けたい。本当に自殺するなら立ち入り禁止の富士樹海コンパスを持って行く。

 そうした曖昧模糊な思考の行く末は、誰しもが抱く物書きになりたいという夢だった。

 結局、こうなってしまう。馬鹿な邯鄲の夢だ。

 実際、小説家仕事についてはよく分かっている。自分の書きたいことを書けずに職業として編集者に指示を受けながら書かねばならないことや、サラリーマンよりも低い年収で、しかも売れなきゃゴミだと評価されることも分かっている。

 それでも、こうして文章を書くことに意義を見い出すことが出来るのは、個人的に素晴らしく有意義に思える。自分が真っ当に生きていく結論としては、小説家になることが最も分かりやすくてシンプルなんじゃないかと、そう思った。

 先述した――恋はもっと、シンプルで良い――なんて青臭い科白は、そのまま僕の文章に対するスタンスに直結している。

 もっと、シンプルで良く。僕は心の底からシンプルでありたいと思っている。

 だから、小説家になりたい。そう思って僕は文章を書き続けている。

2009-06-21

http://anond.hatelabo.jp/20090621193349

過去形で言わなくてもいいような嫁だったら、

出会ったのが30代40代だろうが無問題だよな。

結局結婚に対する後悔や恐怖を「若いころ知り合ってたら」ってすり替えてるだけだからなぁ。

http://anond.hatelabo.jp/20090621170724

そこは「過去形で言うな、カス!」と叱っておくべきじゃね?

2009-06-19

小学校英語を教えろと主張する人が、日本語の乱れを嘆いていた

小学校から英語教育を施し「話せる」英語を習得させるべきだ

という意見を、自分の周りでは結構よく耳にする。

その辺りの是非を語るつもりはないし

語ることが出来るほどの知識も経験も無いわけだが

昨日、それに関連して面白い出来事があった。

Aさんは小学校から英語を教え(代わりに算数と理科国語時間を削る)

大学に入学するまでにはネイティスピーカー英語で会話できる

というレベルまで国が指導するよう教育改革するべきだ! という意見の持ち主。

このAさんと、昨日食事をする機会がありレストランに足を運んだのだが

比較的若いバイトのウェイターが注文を復唱した際、

「以上でよろしかったでしょうか?」

という、聞く人が聞けばパブロフの犬の如く"噛み付く"言葉を口にしてしまったのだ。

Aさんはウェイターが下がった後に、案の定言葉の乱れについて嘆いていたわけだが

そんなことはこの際どうでもよく、この「以上でよろしかったでしょうか?」

という言い回しは案外興味深いと思う。

「以上でよろしかったでしょうか?」

という言葉違和感を感じる人は、"かった"という部分に反応して

「よろしいでしょうか」に訂正してほしいと感じることが多いようだ。

だが、"かった"という過去形を持ち出すのは、英語感覚から考えると結構自然な発想で、

過去形という時制をして、現在のことであっても相手との距離感等をかもし出す事で

丁寧婉曲の表現として提示することが出来る。

現代では、どんどんと英語圏の文化が日常に取り入れられているし

そういうものに敏感な若い人達ならば無意識的に敬語表現の一環として

よろしかったでしょうか」と口に出してしまうのは必然的なことじゃないかと思ったりした。

そう考えてみると他にもいろいろと思い当たる節があって

「私的には~」→「I guess」

「ていうか」→「or(should I say )」

みたいに、若者言葉というのは英語感覚を反映していることが多いように感じる。

小学校から英語を「正しく」「使える形で」教えていくと

恐らく今以上に日本語は乱れていくと思う。

早期英語教育の必要性を訴える人は、日本語の変異を受け入れられる器が必要だろう

2009-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20090610100736

いや、普通に「接した」「接しました」でおkだろJK

過去形として現実に可能だったことを述べている訳なんだから

2009-04-26

http://anond.hatelabo.jp/20090426191146

発話の内容が「過去」に起きて固定された出来事である「完了」した出来事でまだ流動的に持続していることなのか。それは結構重要情報です。よってそれは文の頭に近い場所にある方が望ましい。

英語で、動詞にその情報を載せるのは、一般に英語の文において動詞が文頭に近い場所にあるからですね。一方日本語で、動詞にその情報を載せる慣習がないのは、日本語において述語動詞は文末に置かれることが多いからです。

よって日本語では、時制を表す副詞句などによってその機能を代行させてきました。

「I lost my key.」 については「3年前ここで鍵を失くしたのよ」

「I've lost my key.」については「鍵失くしたの。」

持続を強調したい場合は、さらに補助動詞を補ったりする。「今、鍵を失くしてさあ。」

そんな感じです。だから

日本人にその『感覚』がない」ということはないのではないでしょうか。古文における過去形と完了形にハッキリした違いがあったのかなかったのかと問われれば、それが英語過去形・完了形とはまた全然違った意味合いで、ハッキリした違いがあった、ということは申し上げておきます。完了形にも、有意志と無意志、また生物に使う完了と無生物に使う完了も分かれてましたしね。それが消えたのは、最初に述べたとおり、重要情報だけに文末に置かれると困るケースが増えたからでしょう。おそらく、貴族の時代から武士を中心とする時代に移り変わった頃にそうなっていったのではないでしょうか。


ついでながら、「楽しい5日間だったねえ」「や、まだ終わってないから」というツッコミは、現代日本語動詞に完了と過去の区別がないことを利用した一種のジョークだと思っていたのですが、あれは真面目にツッコんでいるんだったんですか?

http://anond.hatelabo.jp/20090426191146

ドイツ語だと「過去形っぽい」表現は継続云々を気にしないで一律haben+過去分詞で表すんだっけな

過去 - present perfect

4泊5日の旅行、最終日昼過ぎになると、

「いやぁーそれにしても楽しい5日間だったね。まだ終わってないけど」

みたいなシーンがあるじゃないですか。

英語勉強してて思いついたんだけど、これって英語で言うと、

"It's been a nice trip."とか"We've had a nice trip."とか言っちゃって

「まだ終わってないけど」的なことを言わなくて済むわけじゃないですか。

むしろ"It was a nice trip."とか"We had a nice trip."とか言っちゃうと、

「まだ終わってないから!」的なツッコミを入れる必要があるわけですよね。

僕はずっと過去のことは過去形って思ってきて、結構な間違いをおかしてきたんですけど、

現在完了って考え方を導入してみると、確かにそういう場面で発言する機会ってかなりあると思ったんです。

だけど、日本語過去形とか完了形に、ほとんど何の区別もないからか、ここんとこ結構みんな分かってないんじゃないかと。

なんか、説明とか穴埋め的な問題では「知ってる」んだけど、運用ができない、みたいな。

「鍵失くしちゃったー」ってときに"I lost my key."というより"I've lost my key."って感覚は、日本人にはないし、あんまり習わなかった気がします。

そういや日本語もかつては過去形と完了形があったっぽいですが、ニュアンスに違いはあったんでしょうか。気になります。

2009-04-19

増田増田、聞いてくれ。

おれ今、とある中学生向けの塾講師研修受けてるんだわ。いや、受けてたんだわ(過去形)。

でね、研修の内容ってのは模擬授業。その塾の先生が生徒役をやって、こっちが先生役で授業のロールプレイングをするんだ。今回は5回目でさ。そろそろ授業を一回分通しで設計してやれそうな感じだったから、俺の考えるベストな授業を披露したのよ。そしたら、これがボロクソに言われちゃってさ。

その先生いわく、「あなたの自作プリントは確かに分かりやすい。先生が黒板に板書をして生徒がそれを書き写す無駄時間は確かに無くなる。このプリントがあれば生徒は一人で学習できるでしょう。でもそれじゃ、塾の意味が無いわ。塾は自分勉強の出来ない生徒に、先生が黒板の前に立って話すことで学習をさせるもの。生徒が一人でできるようになってしまったら、塾の経営が成り立たないじゃない。」と来たもんだ。おれは言ってやったよ。「教師ってのは最終的に生徒が一人で自立して学習できるようにしてやるためにいるんじゃないのか?」って。「その日は少しでも早く訪れたほうがいいですよね」とも言ってやったさ。

結局のところ、その塾ってやつは、生徒のことを「できないやつだ」っていう前提で見ていて、しかも、表面上はできない生徒の成績向上を声高らかにうたっているのに、実際はできないやつをできないままにしておくような非効率な授業をわざわざして、なるべく長い間生徒から授業料をせしめようとする反吐の出そうな輩だってことなんだ。(こいつが、ここらじゃ結構大手の予備校だってんだから恐れ入る)

おれは今日付けで研修をやめさせてもらったよ。もうちょい生徒や親御さんに対して親身になれるところを探すことにした。

2009-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20090405000545

1社目は、派遣だったので、ビジネスマナーなんて教えて貰ってない。

2社目は、東証一部のIT企業だった(過去形)が中途教育は全くなかった。

名刺を片手で受け取って、ダメじゃん、と云われたり、

電話の取り方でまた云われたり、、べつにそれで覚えればいいんですよ。

同じ失敗を2回やらなければ。すべてにおいて、そういうことだから。

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