はてなキーワード: 詩人とは
ニコニコ動画にてNHKスペシャルの捏造疑惑「奇跡の詩人」を見た。真偽は解らない。
母親が自分で考えているかそうじゃないかなんて母親以外わからない。
ある映像を母親に見せないで本人に見せた後、その映像に対する問題を出すといった実験でもしない限り、
どれだけ議論を重ねても無意味だ。
最初、ニコニコ動画のコメントが「捏造」という趣旨のコメントの嵐で、自分も「酷い捏造だなぁ」と思って見ていた。
コメントを消して見てみると「実は本当なのかもしれない」という気持ちにもなってきた。不思議だ。
対象になっているご本人のミクシィのコミュニティをみていると感動した人のコメントで一杯なのだ。
今回の動画を通じて自分が思っている以上に今の世の中、人の心は操作されやすいと感じた。
ある動画に対して、批判が続くと批判的に、面白いというコメントが続くと面白く感じてしまう。
自分の気がつかないところで洗脳されて情報も操作されていることなど無数にあるだろう。
ひろゆきじゃないが、嘘を嘘だと見ぬけることなど出来るのだろうか?
さきちゃんはもう他人を許すことを知っているのだから、生きづらくなったりはしないでしょう。
それはかえって彼女に対して失礼な気がします。
> http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070517/1179410983
私は、この人の指摘はピントが外れてると思いました。
お前、投影って言いたいだけちゃうんか、と。
奇跡の詩人・日木流奈ちゃんの例でこういう話を持ち出すなら妥当ですけどね。
例の作文を全文読んでみると、母親は客体化された存在として登場しています。
同一視はされていません。
母親の言うことに「ちがう」と疑問を抱いて、それを自分なりに消化したプロセスがあの作文で書かれているのだから。
もちろん子供は母親の影響をまったく受けないことは有り得ないでしょうが、母親が「この子がそういっていました」と語っているわけではなく、本人が書いた作文に対してこのような指摘をするのは的外れに感じました。
(母親自身が代筆したと主張するのなら、それはそれでおかしな話です。もしあなたが代筆するとしたらあんな文章を書きますか?といいたい)
私もあの作文にまつわるトラックバック等を見て回りましたが、この人も含めて懐疑的なコメントをしてる人はほぼ全員、元の作文を読もうとすらしてないのが印象的でした。
ということは、そういう人たちは真実に興味があるわけではないということですよね。
単純に自分たちの世界観にあんなに聡明で達者な文章を書く小2は存在してはいけないから、脊髄反射的に反応しているだけ。
さきちゃんを「達観しすぎて気持ち悪い」等と言っている人たちもそう。
言ってしまえば「子供の分際で」と思っているということです。
こういうのをエイジズムというと思うんですが・・・。
仮に「子供」を「黒人」に置き換えたとしたら、とてもじゃないけど許される発言ではないですよね。
根拠のない決めつけで、存在すら認めようとしないなんて。
こういう大人たちがもっとも子供の心を傷つけ、圧殺するものなのに、本人たちは気づいていないんでしょうね。
それこそ「気持ち悪い」。
トラックバックさせていただいた増田の方の話から多少ずれましたが、興味深かったので。長文すみません。
(追記)ここで批判したご本人からブックマークされたようですが、そのコメントもまた脊髄反射的でピントが外れていて、思わず苦笑してしまいした。
追いつめてしまうような私の書き方も悪かったかもしれませんね。
あなたのような偏見をお持ちの方は少なくないと思っていますので、個人攻撃をしたいわけではありません。
今一度、ご自身の考えの根拠を確かめていただけると幸いに思います。
(追記)http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070608/1181266003
ご本人からさらに予想を超えて的外れな反論(というよりは脊髄反射レスですね)をいただき、微笑ましい限りです。
妄想とタグをつけている、という主張にはなんとも・・・(笑)。
「母親の意識が投影」「欲望は他者の欲望である」等のフレーズの使い方がいかにも付け焼き刃的でピントが外れていらっしゃるので、それを根拠に何かを論じられても苦笑するよりほかにありません。
Nifのフォーラムとかパティオと同じ臭いがして、マジでクサい。
何だ、近藤つーのは、Nifとかの時代の人か? いや、それより若いだろ? つーことは、やっぱ日本文化? うへぇ。
さて。
優越感ゲームって言葉を聞いた時「ちょっと違うんじゃねー」と言葉の定義を考えたが、最近はそもそもその現象に“中身がない”ってことに気付いて「ああ、こりゃ確かにゲームだわ」と実感した。
中身が多少でもあれば「優越感・ゲーム」というニュアンスではなく「自己上位承認の取り合い」(必要なのは、相手に認めて貰うことであって、相手を打ちのめすコトじゃ無い)と思うんだけど。
今は、相手を打ちのめして、相手より上に立つ「ゲーム」なのだから。
ウォーシミュレーションだってルールはあるんだが、このゲームにあるルールは「相手を打ちのめせればなんだっていい」ってだけのこと。
ソースが不確かだから伏せるが、著名な小説家(故人)が、著名な詩人を「アイツの詩は嫌いだ。だって、奴はハゲなんだぜ!」と罵ったことがある……と聞いた。
凄い。これは反論できない。この小説家からすれば「ハゲ如きが詩をろうじるなど言語道断」といった趣だ。
つまり「うっせぇ! 黙れピザ!」というのもなかなか趣深い反論である。
何しろ「俺はエライ お前はエラくない」を宣言するのだから、必然的にそうなるだろう。素晴らしい戦術だ。
その一方で、気の利いたテーゼなんかしたり、人のテーゼに同意したりしながら状況を乗り切る(kanoseの人みたいに)と、対話する相手には事欠かない。
「うっせぇ、ピザ!」もその内に芸になる。気に入らない奴に、ピザラベルを貼るという、素敵なブロガー(pgrの誕生だ。
よかったな、この方法でもステークホルダー(pgrにはなれるはずから、やってみてはどうか。
俺はやらない。無意味だから。金を稼ぐ手段は別にあるしな。そういう承認要求も優越感もイラネ。あー、金が貰えるなら……いや、めどいから止めておこう。
http://anond.hatelabo.jp/20070419001713
http://anond.hatelabo.jp/20070422000431
「なんだか物によっては周辺の2次創作だけ抑えて判った気になってしまうんです」
「そ、そりゃいかんですよ。僕は原作を極力おさえるようにして…」
女性なのに男性向けエロパロから作品に入るのはどうか、と太一郎は思う。
パセラから駅へ、駅から早稲田へ。電車に乗りながら、ぽてぽてと歩きながら、そんなオタクトークをする。
「あっちょっと待ってくださいソフトクリームが」
「ソフトクリーム?」
どうみても雑貨屋の前だ。彼女は雑貨屋に踏み込んでいく。後について入るが、やはりかわいらしい小物が陳列してある。奥を見ると、小さな喫茶スペースがありソフトクリームを販売していた。
「凄いところで売ってるなあ。東京には無駄にする土地は少しもないということか」
「ほらここに看板があったのを見つけたんですよ」
「よく気づいたなあ」
やはりこの人はどこか聡い。なのに何故文章はあんなに燃料満載なのだろうか。
コミケでの過ごし方などについて話しつつ歩いていたが、かなり歩いたのに着かない。彼女は早速そのへんの人を捕まえて道を聞いている。
「この先の大きな交差点で右に曲がるんですって」
非コミュを自称したり、職場で非コミュを実践していたエピソードを語る割に、こういう行動には問題ないらしい。太一郎なら適当に当たりをつけて誰にも聞かずに進み、後悔するだろう。
非コミュというのはいったいどういう物事なのだろう。話をしながらそんなことを考えていた。
「ここです」
みるからに怪しい小さな店の前で彼女は立ち止まった。
中に入るとそこには、あるはてなダイアラーがマスターとして準備をしていたが、彼女を見るなり(某はてなダイアラーの名誉のために略)叩きつけられる机(略)空き瓶を額で(略)「あなたこの間私のこと嫌(略)「こんなに俺が(略)太一郎はネタなのかマジなのか決めかねていた。マジだったら介入すべきなんだろうが微妙な線であり介入したとすると(略)
事態が収集され、落ち着いて座る。中には今日のマスターと、太一郎と、彼女だけ。
改めて回りを見回すと、少し居心地が悪い。内装の雰囲気は、大学のサークル部室に似ていた。しかし、その雰囲気は太一郎のような電算機サークルのそれではなく、ベタに文化系サークルのものだ。共産主義運動の香りのする張り紙。傷だらけで無秩序なインテリア。
ここはアウエイだ。強くそれを自覚する。
カウンターの隅にあるPCで太一郎は自分のダイアリーを表示して教えた。電車の中で小説のお勧めを聞かれて即答できずダイアリーに書いていると言っていた為だ。
「私ストーカーだから過去日記とか全部見ますよ!さかのぼって!」
「うわあ。まあいいけど」
目の前で日記を読まれているというのはなかなか恥ずかしい体験だ。
4人ほど学生が入ってきて、80年代文化について輪講をするという。レジュメを配っていたので太一郎もついでにもらう。レジュメは3題話の様相を呈していた。80年代のクラブシーンの音楽、ハッカー文化、エコロジー。レジュメからヤバイ感じがする。ポイントを外した、ハッカー文化に対する理解。
輪講が始まって、予感は的中した。薄い、薄い、ポイントを外した理解に基づいて延々と語られるコンピュータの進化の歴史とハッカー文化。
「くわっ!これはイラっとくる!」
「まあまあ」
気を利かせて本の話題を振ってくれたりしたので、太一郎はそれにのってしばらく話した。最初に大きい嘘を一つだけついて後は誠実に論理的に話を転がしていく本が好きだ、だからロボット3原則ものは面白いとアシモフの話をしたり。
しかし、最終的には学生たちに対して延々とハッカー文化について語ってしまう。自分は当時ハッカーを憧れの目で見ていた少年に過ぎなかったにも関わらず自分のことのように語り、文化に対する解説という名の説教をしてしまった。
学生たちが帰ると、夜にあるというライブに向けて徐々に人が集まってきた。狭い店内は熱気で暑くなり、身動きがとりづらい状態になる。
叫ぶ詩人。エレキ尺八。双合唱。何度かの休憩を挟み、ライブが続いていく。
「ああ、凄いですね、なんだかエネルギーがあるというか」
心にも無いことを適当に言ってあわせながら、あまりの暗黒ぶりに太一郎はおののいていた。あまりにも波長が合わない。心が闇のように黒くなるような、そんな音楽。
へとへとになって店外に出ると、「革萌」と書いたヘルメットをかぶった人たちが来ていて入れずにブルーシートを引きだしていた。
「なんだよ呼ばれてきたのに中に入れないのかよ!ひどいよ!」
外に出る太一郎。入れ替わりに2名ほど中へ入る。
屋外で楽しそうに立ち話する革萌の人たち。奥へ奥へと動いてついにカウンターの中に入ってしまった彼女。
「象徴的だな…」
店内で最後の最も盛り上がる演奏が行われる中、太一郎は暗い暗い空を見上げて微笑み、自販機の缶コーヒーをちびちびと飲み続けるのだった。
(おわり)
ちょっとした素敵な勘違いというか手違いという神の導きにより、非コミュを自認する方と物凄くおいしい食事をしてきた。すごく良い経験になった。神と、先方に感謝。
その方は基本的に数学が得意な脳の持ち主で、本もたくさん読んでいて、専攻は社会学系、はっきり言って俺よりずっと頭がいい。仕事はコーダー。本人はIT土方って言ってたw。
分析力は俺よりずっと高いし、速いはず。でもその次の段階がうまくいかないらしい。そこで精神的な平常を失いがちなのが人間の自然な姿なのだが、その方はそこを武道を通して身につけたスキルを応用して克服したようだ。頭がいい人はどんどん汎用する。しかしcommunicationだけは別のようだ。「文章が書けるのにcommunicationができない、聡明なエントリは書けるのに脊椎コメントが書けない、脳内メモリにエントリ要素を溜めて加工して文字に落とし込むことはできても、思索同時筆記ができない。」こういう感じなのだと思う。エッサさんのブログの書き方と近いのだと思う。
最近強く思うことなのだが、文系は馬鹿ばっかりだ。馬鹿というか誠実さが足りない。これは言葉が本来的に持つ欺瞞というか不誠実さの結果であろう。しかしそれを誠実に分析せず、経済的利益構造確保のためにアカデミズムの中に居場所を確保し、文壇や論壇といった経済圏というかマーケットを作り、維持するために、権威の構築のための研究ばかりしているというのが、文系の歴史の一面である。非コミュの原因の根底には間違いなくこの問題があり、そしてそれを小説という方法のなかに取り込んだのが村上春樹(の一面)であるのだと思う。だから文壇や批評家の嫌悪というか憎悪は当然なんだよ。馬鹿だから自覚無いだろうけどな。
理系の皆さんにこれだけは覚えておいて欲しい。
あ、知ってるって?w。
でももっと確信を持って正面から馬鹿にしたほうがイイよ。文系の学問、ことに文学部、そして文学界の構成員というのは、文系の研究機関や大学や文壇や論壇に養ってもらうか、さもなければ生活保護か、という人間達の生存のためだけの活動である場合が多いという真実を白日の下に晒すことにより、理系の研究の予算は増えるはず。雇用も増えるはず。そしてこの世界を豊かに発展させるはず。
文学部や文壇なんてなくても詩人は詩を書くだろう。しかし医学部が無ければ医師は育たないし、研究と教育が無ければテクノロジーは退化して死ぬ。テクノロジーが世界を、芸術を、文学をリードするという事実は、この星の文化の歴史が証明してるはず。
追記
要するに文学部や文壇や論壇や批評家と言っても良いのかもしれない。経済学は文系か理系か?みたいなね
でも言葉にとって最も重要なことは定義の正誤や一貫性や論理的整合性ではなくインパクトですよ
これ言葉の本質だから覚えておくと良い
http://anond.hatelabo.jp/20070422153630
追記
http://anond.hatelabo.jp/20070422160116
その通りなので、「歴史学」はこのエントリでいう「文系」から除外します。
追記
無駄な文系研究機関や文壇論壇系ジャーナリストのマーケットを潰したら
参考になるテーマとして
「闘魂とは」
というのがあるね。
なんだかオリコンの2位までいってる評判の曲だ。
ネットで手に入れるために検索していたら、「千の風になって」の作者というページが
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/prof/1000winds.html
各国で行われる戦争記念日、慰霊祭では、必ずといってよいほどこの詩が登場し、遺族の心を和らげています。しかし、あまりに有名な詩にもかかわらず、原作者については、つい最近まで知られることなく過ぎてきました。この詩人が市井の人を貫いたため、資料が少なかったのがその理由だと思われます。
世界中で愛されてる詩なんだなぁと感心。そしてその誕生秘話にちょっと感動。
そちらは上のページを見てもらうとして、さらに感動したのが
そして、明らかになった事実は、この詩になんら著作権が設定されていない事である。この詩が人々の共有財産であるため、彼女は一銭の報酬も受けていないのである。
この件についてメアリーは、次のように話す。「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ。今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・・。多分、いかれてるんでしょうね。」
なんともいい話だなぁと余韻にひたりながら、グーグルでトップにくるページを見て回っていると
http://www.twin.ne.jp/~m_nacht/1000wind/1000wind.html
■歌詞の転載をされる方へ■
http://anond.hatelabo.jp/20070204134818
そういやプラトンは理想国家に詩人はイランというようなことを言ってなかったっけ、と思ってググったらちょっと違った。
これはあれだ、『水からの伝言を信じないでください』だな。
http://d.hatena.ne.jp/Hamachiya2/20070114/ha_url_janaiyo_poem_dayo_hi_konnnichiha(2006・はまちや)▽はまちやがこのポエムを世に問うたのは、もう24時間も前のことになる。当時は無断リンク禁止などという論争があったものだと感慨に耽りながら新春の東京に出た。まだ朝晩の冷え込みの厳しい季節ではあるが、『システムの廃止を希望します』『自由なリンクなんてネットじゃありえない!』といったお花畑を見ていると春も近いことが感じられる。▽……
やっぱり駄目だな。この調子で進めると、最後の部分が「tinycafeの横暴を許さないように眼を光らせていなければならない。」または、「いつも遊び心を忘れなかった詩人はまちやの、今日が命日である。」のどちらかになりそうだが、どちらも酷すぎる。