ちょっとした素敵な勘違いというか手違いという神の導きにより、非コミュを自認する方と物凄くおいしい食事をしてきた。すごく良い経験になった。神と、先方に感謝。
その方は基本的に数学が得意な脳の持ち主で、本もたくさん読んでいて、専攻は社会学系、はっきり言って俺よりずっと頭がいい。仕事はコーダー。本人はIT土方って言ってたw。
分析力は俺よりずっと高いし、速いはず。でもその次の段階がうまくいかないらしい。そこで精神的な平常を失いがちなのが人間の自然な姿なのだが、その方はそこを武道を通して身につけたスキルを応用して克服したようだ。頭がいい人はどんどん汎用する。しかしcommunicationだけは別のようだ。「文章が書けるのにcommunicationができない、聡明なエントリは書けるのに脊椎コメントが書けない、脳内メモリにエントリ要素を溜めて加工して文字に落とし込むことはできても、思索同時筆記ができない。」こういう感じなのだと思う。エッサさんのブログの書き方と近いのだと思う。
最近強く思うことなのだが、文系は馬鹿ばっかりだ。馬鹿というか誠実さが足りない。これは言葉が本来的に持つ欺瞞というか不誠実さの結果であろう。しかしそれを誠実に分析せず、経済的利益構造確保のためにアカデミズムの中に居場所を確保し、文壇や論壇といった経済圏というかマーケットを作り、維持するために、権威の構築のための研究ばかりしているというのが、文系の歴史の一面である。非コミュの原因の根底には間違いなくこの問題があり、そしてそれを小説という方法のなかに取り込んだのが村上春樹(の一面)であるのだと思う。だから文壇や批評家の嫌悪というか憎悪は当然なんだよ。馬鹿だから自覚無いだろうけどな。
理系の皆さんにこれだけは覚えておいて欲しい。
あ、知ってるって?w。
でももっと確信を持って正面から馬鹿にしたほうがイイよ。文系の学問、ことに文学部、そして文学界の構成員というのは、文系の研究機関や大学や文壇や論壇に養ってもらうか、さもなければ生活保護か、という人間達の生存のためだけの活動である場合が多いという真実を白日の下に晒すことにより、理系の研究の予算は増えるはず。雇用も増えるはず。そしてこの世界を豊かに発展させるはず。
文学部や文壇なんてなくても詩人は詩を書くだろう。しかし医学部が無ければ医師は育たないし、研究と教育が無ければテクノロジーは退化して死ぬ。テクノロジーが世界を、芸術を、文学をリードするという事実は、この星の文化の歴史が証明してるはず。
追記
要するに文学部や文壇や論壇や批評家と言っても良いのかもしれない。経済学は文系か理系か?みたいなね
でも言葉にとって最も重要なことは定義の正誤や一貫性や論理的整合性ではなくインパクトですよ
これ言葉の本質だから覚えておくと良い
http://anond.hatelabo.jp/20070422153630
追記
http://anond.hatelabo.jp/20070422160116
その通りなので、「歴史学」はこのエントリでいう「文系」から除外します。
追記
無駄な文系研究機関や文壇論壇系ジャーナリストのマーケットを潰したら
参考になるテーマとして
「闘魂とは」
というのがあるね。