はてなキーワード: 「ときめき」とは
ただし、ホルモンやそれによる身体的反応と同じく、それ(その反応)をどう本人が自分の中で意味づけているかが重要、とする学説もある
身体的反応の原因をどう認知解釈するかで、自覚される情動の種類が変わってくるというのはおもしろいですね。
経験不足によって身体反応の原因がスムースに解釈されないということもあるのでしょうか。
実はしばらくの間この感覚をはっきり「ときめき」とは認識できていなくて
“おもに恋愛関係の出来事や創作物に触れると稀に起こる変な衝撃”だと思っていました。
「状況から判断してあの感覚って『ときめき』なのか!」と自覚したあとは
身体反応が起きた後の心の動きも変わっていった気がします。
胸が張り裂けそうとはこのことか!って思った。
肋骨張ってみたい。
私は身体反応を情動と結びつけたことがないので、これは新鮮。
「ときめき」のような情動表現は、単に心の状態を表しただけで身体反応までは含まれてないと思ってた。
鳥肌とか寒くても気持ち悪くても感動しても立つし。
元増田の「ときめく」は、自分の中では「戦慄」に似てる。高ストレス下におけるアドレナリンの興奮作用?とか。
一方、自分の「ときめく」は、もっと微少な感覚で、温かい感じ。感心、感動したことによるエンドルフィンの放出みたいな。
ただし、ホルモンやそれによる身体的反応と同じく、それ(その反応)をどう本人が自分の中で意味づけているかが重要、とする学説もある(シャクター、シンガーの実験等を参照)ので、元増田がそれを「ときめき」だと捉えていたとしたら、それはそれで構わないんじゃないかな。
ただ、他人の書いた文章や文学作品を読んで共感しづらい、ということは起こってくるかもしれないので、それはまあ弊害っちゃ弊害ですね。
小便の切れが悪い。
残尿感とか言うほど大袈裟なものではないのだが、んー…果たしてコレって残らず排出されたと見てよいものか。という懸念というか、不明瞭な感じがいつもある。
そこで便器の前で排尿が終わった後の時間を長く取り、微妙に屈伸運動をしたりつま先立ちを繰り返したりして、これで完全に排泄されたのだという爽快が訪れるのをいちおう待ってみる。けどもう長らくその爽快は味わっていないようだ。仕方なくしまい込む。やれやれと立ち去る。この一連の儀式は我ながらなかなかに哀しくて間の抜けた絵面である。とてもよろしい。
それはそれとして、この不甲斐なさが一体いつ頃からのことなのか今ひとつはっきりしないのである。子供の頃は小便を終えた後、もっとすっきりした感じがあったような気はしている。けど意外にそうでもなく、すっきりしてなかろうが格納した後に垂れ流そうが子供特有の無頓着で意に介さなかっただけという話もありそうである。長じて快便を体調良好のバロメータとする意識を持つようになったせいで、不健康や衰えとは無縁であったはずの子供時代を美化しすぎているのかもしれない。「昔は良かった」は容易に陥る思考の陥穽だ…って、要は記憶を辿ってもよく分からないということが言いたいのである。
似た話で起き抜けなどに鏡を覗くと、そこにある皺にふと違和感を覚える時がある。あれ、こんな所に皺などあったっけ?という疑問が浮かぶのである。寝相の関係で圧迫されてできた皺が一時的なクセになるのはよくある事だけど、そうではなくて明らかに顔の一部となっている。すると昨日今日でホイホイできたとは考えにくい。ということはむろん前からあったものなのだという結論になる。けれどそれが一体いつ頃からそこにあったのか、今ひとつはっきりしない。
どうも近ごろ、私にとっての過去というものが加速度的に曖昧でおぼろなものになってゆくようでそこはかとなく恐ろしい。これはあったはずの出来事を忘れてしまうというだけの話では収まらない。
それまで「当たり前」どころか「前提」ぐらいにすら思っていた、私なりの物の見方や感じ方。そういう、いわば私の存在の中核となっていたもの、「私はこういう人間だ」と規定していたもののかたちでさえ次第に風化して崩れていっているように思われてならないということである。私という人間の輪郭が段々とぼやけていっているということである。
大きな喪失を感じるのが、そのときどきで抱いた感情や内的体験の味とか匂いのような質感が失われてゆくことである。幼児の頃の私は、なんでもないような絵や光景によくメルヘンな気分を味わった。子供の頃には、些細な風景写真や映画によく世界の広大さそのものへの憧憬の念のような感情が湧き起こった。
気恥ずかしいが、そういう「ときめき」がどんな感じであったか、さかしらに言えばときめきのクオリアとでも呼ぶべきものが思い出せない。ごくたまに、なにかの偶然がトリガーとなって自分の中によみがえる(匂いがきっかけとなることが多い)ことがあるまで、そんなものがあったことすら忘れてしまっているのである。けど私にとって、そういうものこそが生の実感であったはずのものだった。どうも今の私は魂を抜かれた抜け殻が生きているかのようである。
ご存知のとおり、人の肉体は固定されたものに見えて実は流動的である。代謝によって肉体を構成する物質が絶えず入れ替わり、我々がふだん石や木材のような固体のイメージで捉えている骨でさえ骨代謝という働きにより成人3年で完全に入れ替わる。言い換えれば3年前の私と今の私は正真正銘別物である。生命とはモノではなく、コトなのであって、渦とか波とかの現象と質的に同じなのである。こういう話を聞くにつけその確かな拠り所の無さ、脆さ儚さを思わずにはいられない。うたかたに例えた古人はまことに正しい。
まして人間の精神のような無形のものの流転の様は推して知るべしなのである。「私はいつだって私だ」というのは単純に言ってただの錯覚で、絶えずアメーバのように形を変えているイメージがより近いと私は思う。自分では一定の形を保っているように思っていながら、そのじつ絶えずなにかが流出し、知らずになにかが流入し続けているのである。朱に交われば赤くなるのだ。
下り坂の年齢にあると、その流出してしまったものの大きさのほうが堪える事実である。流入してくるものも無くはなかろうがどうも良いものには思われない。