はてなキーワード: 恋愛資本主義とは
恋愛資本主義ってのは、
恋愛資本(カネであるとか容姿であるとかコミュ力であるとか)を持つ者がますます富み(よりモテること)、
持たざる者が、ますます持てざる者になりゆくことじゃないの? 資本主義の失敗的に考えて。
ちまたでよく「恋愛資本主義」とか「恋愛至上主義」とかいう言葉を聞くけど、なんだかいろんな意味がまじってて混乱したので、ちょっと整理してみました。どんなもんでしょうか。
(1) 恋愛至上主義:愛こそもっとも価値あるものであるという考え。愛のない人や、恋人をつくって愛をはぐくめないような人は価値のないダメ人間だという含意をもつ。
(1-a) 性愛における恋愛至上主義:愛のあるセックスこそ唯一のよいセックス、そうでないセックスはダメなセックス。愛のないセックスは不潔。
(1-b) 婚姻関係における恋愛至上主義:愛のある結婚こそ唯一のよい結婚。そうでない結婚はダメな結婚。愛のない結婚ほど不幸なものはない。
(2) 自由恋愛主義:男女のマッチングは自由恋愛という競争を通じてなされるべきであるという考え。家のためなどと称して個人以外の主体がそのマッチングを指導・監督・規制することがあってはならないとする。
(3) 恋愛資本主義社会:恋愛への欲望が経済活動のなかに組み込まれているような社会のこと。女性は恋愛で勝利するためにお洒落などの消費を行う。また、男性が勝利するためには、そうした消費をファイナンスできるだけの経済力が必要。
ずいぶん久しぶりに社会学の書棚にいったらブルデューの『結婚戦略:家族と階級の再生産』という本の翻訳が出ていたのでついつい買ってしまいました。
下の引用は旧来の家中心の婚姻システムが崩れ、自由恋愛システムが立ち現れ始め、農民=ダサイ、都会人=イケてる、という対立が明らかになってきた時期のフランスのど田舎の農村について記述です。それが1962年に書かれた論文のものだということを考えると、今になって「恋愛資本主義」だなんだとさわいでいるのがばからしく思えてきました。
「クリスマスのダンスパーテーが、とあるカフェの奥のホールでおこなわれている。(・・・)フロアの周縁につっ立って暗い塊をなしている一段の年長の男たちが押し黙ったまま見物している。(・・・)独り者が皆、そこに揃っているのだ。(・・・)クリスマスや元日のダンスパーティーでは、独り者たちは何もすることがない。(・・・)独り者連中は夜中までそこにいるだろう。パーティーの明かりと賑わいの中、ほとんど無言のまま、近づくことのできない娘たちを見やりながら。そのあと彼らはカフェの奥に行き、向かい合って飲むことだろう」(pp.7-8)
「たとえ少しでもぎこちなかったり、無精ひげが生えていたり、みっともない身なりをしていれば、農民は即座に『ふさぎの虫にとりつかれた、不器用な、気むずかしい、時には、下品な、女にたいしてつっけんどんな』、社交的でなく無愛想なフクロウと見なされてしまうのである」(p.136)
「自らの身体に関する惨めな意識は、(都会人とは異なり)農民を自分の身体から切り裂き、内向的な態度にさせる。こうした態度こそが臆病さとぎこちなさの根源にあり、彼にダンスを禁じ、女性の前で単純で自然な態度をとることを禁じるのである。結局のところ農民は、自らの身体に当惑しているために、我を忘れさせ、自らの身体を衆目にさらすようなあらゆる機会のなかで、気詰まりやぎこちなさを感じてしまうのである」(p.137)
「経済的・社会的条件が結婚への適性に影響を及ぼすのは、主として男性がこうした条件について抱いている意識を媒介にしてなのである。要するに、自覚のある農民とは、軽蔑的な意味での農民として自らをとらえる機会をいくどとなく持たされてしまった農民なのである」(p.138)
「非モテ」とは、本来は「モテない事、または人」を意味する言葉である。
多数派に同調しない俺カコイイ!等の理由から周辺の制止を無視して無謀なオフ会の開催を宣言、諌言する者をDisりまくった挙句、予想通りの実行不能に陥って、「覚悟が足りませんでした…」等の醜態を晒す男子。
「恋愛資本主義の粉砕」等のスローガンを掲げてデモ活動を行ったり、革命家・活動家への憧れから日々ネット上で同志と称する仲間達と傍目にはどうでもいい議論に明け暮れた結果、内ゲバなどセクト活動のトホホな部分まで再現してしまい、「消えます」「死にます」「ごめんなさい」と醜態をさらす男子。
また、上記の様な男子のどうでもいい活動に対し、反セクトの立場から積極的に絡むことで結果的に革命的物語の登場人物になっている男子。
これらにあてはまるはてな男子が好んで「非モテ」議論を行うことから、そのどうでもよさと尻の青さと童貞臭さを揶揄して彼らを「非モテ(笑)」と表現するようになった。
異性を愛する気持ちってのはまぁかなり普遍的だけど、(別に同性愛者の人を批判するのではないよ。集団の一定数のひとが異性愛者である状況が普遍的ってだけ。)そのあり方はわりと文化的。で、文化的ってことはさまざまな要因によって、決まっているわけね。
今の形で言う「恋愛」は西洋起源のものだから、(そもそもの起源についてはヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』がオススメ。)こうした概念が入ってくる経路として文学が大きいって言う意見は的確だと思う。ただ、はてな界隈でいわれている「恋愛資本主義の主犯」っていうコトバの意味は、「今」こうした見解を発生させ、維持している犯人は誰かってことだから、「電通が主犯」となるわけだよ。
ただ、個人的には「主犯」なんていないと思うけどね。スイーツ(笑)から様々な関連企業と広告会社、それに多くの女流作家とかの、この言説を支持し強化するさまざまな「共犯者たち」ならいっぱいいるけれども。
匿名ダイアリーの id:20070718150956 を読んで思ったこと。
ひょっとしたら、自分の「はてな」本館((ここはあくまでも匿名で名前は書かないのが流儀なんだろうから、今の所は伏せておくけど))で同じネタ書く((下手すりゃ、コピペ?))かもしれないけど。
正直な所、男性が性的な視線で見られるという事に鈍感だというのはあると思う。
逆に言うと、そのあたりは社会的な。と言うか明治以降、男性が身体性を否定されつづけてきた日本社会のジェンダー観がかかってくると思う。
実際、戦前戦後と男性というのは労働をすると言う役割が強くて一部の「種馬」は逸脱した存在であったと言う暗黙の共通認識((っつーか共同幻想))があって、その中で、男性のリビドーというのは存在しつづけたわけで、その部分を「赤線」「青線」なんかや「お見合い」と言うのがガス抜き装置として作用していたんだけど、そこいらも社会的な部分から否定されて、残ったのは、「恋愛」を通じたセックスの回路だけになってしまったと言う感じがするんですよね。
逆に、女性の側も身体性を否定されていて、「良妻賢母」だ「貞操」だなんだと言うあたりで抑圧されてきていて、抑圧がきつかった分、逆にアメリカ文化が入ってきたときにハジける具合が早くて、女性は男性のセックスアピールを見る目も、自分のセックスアピールがどう見られているかという視点も「鍛えられた」
そういう意味では、ガス抜き装置がある程度作動している分、男性の方が鈍感な場合が多くなるのは必然だし、「性的な視線で見られている」と言う意識は、実は男性の場合は恋愛と直結している訳ですよね。
笑えないのは、男性の女性に対する性的な視線と恋愛が直結している訳ではない。と言うパラドックスがある事なんですけど。
それはともかく、実際の所、「恋愛資本主義」って言葉に代表される最近の状況ってのは、男性が、自分の性的魅力がどう見られているのか、敏感になりはじめていることなのではないかな。と思います。
「恋愛でモテること=自分の性的魅力があること」であると言う事を、直感的な部分で感じているのではないかと。
ただ、そこをまだ言語化できていないとか、自分の性的魅力も他人の性的魅力もを通り一遍の基準で見ようとしている辺りが、ジェンダーの縛りがまだ(最低でも男性には)かなりきつい状況から抜け出せていないのではないかな。とかおもうんですけおね。
本田透の「電波男」に代表される、恋愛資本主義への反発から三次元恋愛を忌避するのって、格好良く言えば
だと思う。
待遇改善なくば恋愛市場を潤す事には協力してやらんぞ、という。
ただ、喪男が恋愛ストを決行したところで、社会は全然痛がりもかゆがりもしないので、ストライキの意味がないのかもしれないが。
ここは少子化に対するパニック意識を逆手に取って脅すのが効果的だろうか。こういう風に。
「待遇改善なくば結婚をボイコットするし、子供を作るなんてもっての他! 日本を滅ぼしたくなかったらもっと待遇を改善しろ!」と。
しかし、非モテのDNAが滅んで我々みたいにマシなDNAが生き残るべきだと考える人の前では、こういう主張をしたところで無意味かもしれないが……
理屈抜きに不思議で考えさせられるのが現実の恋愛だと思います。
そりゃ恋愛資本主義?至上主義?などと疑いだしたり、「キモメン搾取だ」なんてケチ付け出したらキリがありませんが!?
理屈や疑りよりもここは素直にこの世界の男女の成り行きを『素晴らしい』と感じてみるのが最も最良な人生の楽しみ方であり、世のラブソングや恋愛ドラマが歓迎される意味があると思えるのです!?
なにはともあれ『親』や『先生』や『教師』と呼ばれる立場の方には恋愛体質になられることをお勧め致します、勿論主婦や旦那さん、精神医療関係者、宗教家、詐欺師にもお勧めです、あと幼稚園や小学校からでも恋愛の素晴らしさについて教えて欲しいな???
こんな時代だからこそ今一度『恋愛』の大切さ、その奥の『心』の大切さ、考えてみてもイイんじゃないかな・・・意味あるよ。
※ ※ ※ ※
「非モテ」さんたちが書かれた文章を見て正直驚きました。なんて、いろいろな考え方があるんだろう・・・
私は恋愛から「感動」と、日頃感じている「わたしはなんのために生きているのか?」を解くためのヒントを得た気がします。
素直に、単純に「恋愛は自分に必要なものだ」と感じたし、だからこうして恋人とめぐり合えたとも思っています。
誰でも、自分なりの基準(考え方)と選択の自由があります。世の中のみんなが恋愛はすばらしいと伝えたがっていることを、私のようにすんなりと受入れることが出来る人もいる反面、先天的能力を無視しているとか、搾取だとか、商業的だとか言って、相容れない人もいます。
それは、それで当然だと思いますし、自分と違うからと言って非難するつもりはありません。
ただ、そういう人達は、周りの誰か一人でも「心からの救い」を求めている人をみつけ明るく希望をもって生きれるよう手助けをしたことがあるかどうか、自分の(正しい)と思っていることを堂々と日頃から伝え(発信し、)その事が人々の役にたったり、感動を与えていますか?とお聞きしたい。
人間が感じる、知り得る、学び得る範囲内で100%正しい答えを出すことは不可能だと思っています。だから、何が正しいとか正しくないとか、どういう考え(基準)で生きるかは個人の自由であり、その考えに共感するかしないか選択するのもまたその人の自由なのだと思います。
自分の考え、知識に合致しないからと言って、断罪めいたり、馬鹿にした態度は、非モテさんたち自身の品位を貶めているようなものだと感じますし、どなたかが言っているように、そこまで言うのなら、実名で批判されるくらいの責任をもつべきだと思います。
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コメント欄を見て、賛否両論激しいので、私の意見も書こう!と思いました。
私は非モテさんの理論のことはわからないので、ここに書かれていることがホントか嘘かわかりません。
でも、もし嘘だとしても、つまらない論理や真実よりはぜんぜんいいし、これからの人生にプラスになると思いました☆
恋愛したいなら、世の中の矛盾点や疑問点を探すのではなく、輝いている☆人たちのメッセージを受け取ってもらいたいなと思います。受けとめ方は色々だと思うけど、すべての人にとって恋愛は大切だと思います。ひとりでも多くの人に恋愛の素晴らしさを知ってもらいたいと思いました。
※ ※ ※ ※
「地球上の人間の感情が愛と感謝に満ちた時、地球が美しくなる。」これこそ、何の根拠もない結論だけど、そう信じて生きたほうが幸せかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20070213030319
http://anond.hatelabo.jp/20070213010952
http://anond.hatelabo.jp/20070213030319
微妙に違う。恋愛資本主義とかどうでもいいし、悩んでもいない。
(因みに、これは私が”特別な悩みを持った人間であるが故に特別な人間である”と言う回りくどい自慢話じゃない)
というか、非モテ言説の何がつまらないって、結局彼らの言いたい事って2つに集約できる点だ。1つ目が「モテたい」であり、2つ目が「注目されたい」であって、別に恋愛資本主義がどーのこーのとか言ってるが、根本は「恋愛」が何にすげ代わっても、変わらない。
例えばの話、「うんこ資本主義」ってのがあって、うんこに凄く価値がある。良いうんこを出すことに皆命をかけてる。うんこ雑誌が滅茶苦茶流行る。「良いうんこの出し方!」とか特集する。良いうんこを出す為のサプリメントが馬鹿売れする。良いうんこができないと学校でイジメられる。
でも、生まれつき良いうんこができない人がいる。そういう人たちは「非うんこ」とか言って、うんこ中心主義的な価値観を批判する「なんでうんこなんかしなきゃならないんだ? ただの排泄行為じゃないか!」とか言う訳です。
でも、それで良いうんこができないことに変わりは無いし、うんこは生理現象なので、まあ一応はしなきゃならない。「うんこ」が別の概念に置換されても、これとほぼ同じ事が起きる訳で。だから「恋愛」も一緒。なぜ「恋愛」が重視されるかなんて理由はない。理由がないからこそ強固に作用する。
そうすると、彼らのやってる事ってのは、良い恋愛orうんこができない事に対するルサンチマンの噴出か、その言説そのものによって、自己を地位を高めようという身振りにしか「ならない」本人がどう思うかに関らず。
要は、なんらかの概念を中心に組織される象徴体系と、それを媒介に流通する人間の欲望、と言うシステム自体は普遍なわけだ。
恋愛と言う点で言えば、私は個人的には恋愛感情もあるし、好きな女の子と一緒に居れば楽しいしな。
誰かと一緒にワイワイやるのも、悪くは無いよ。
ただ、そればっかじゃ嫌なだけ。で、嫌と感じる私はこの社会の関係の網の中でやりづらい思いをする。
そこで、欲望の強度が低い、と言う事が問題になる。
私が言いたいのはその欲望の作用の仕方の「仕組み」そのものの話で、仕組みを変えるのは難しいからねー。淡々と、なるべく不愉快な目に合わないように生きるしかない。
ただそれだけ。悩んじゃいない。変えられないものに対して悩んでもしょうがないから。
ただ困る。困るから、「困る」って言ってるし、楽しく生きたいから、楽しめる人=欲望を所有できる人、に嫉妬して、嫌悪する。
ただそれだけ。
自分にないものをウダウダ考えるより、相手の求めているものを見つけるほうが上手くいくんでない?
恋愛資本主義に踊らされるヤツはバカだー!とか思っている人ほど、ソレに踊らされているみたいな。
ほんと、ちょっとしたことでいいのにね。
「アニメやゲームの女の子に恋をするなんて終わってる」って誰が言い出した話?
それは二次元の女の子をちゃんと可愛がろうという努力をハナから放棄してる証拠では。
ただ三次元の女の子を見付けてデートすれば誰でも彼女ができるなんて漫画みたいな考えの人は、現実に返りなさい。
それでも二次元の女の子に恋するのに尻込みしている人も多いみたいですが、尻込みするだけで何も行動しなければ何も始まらないでしょう。
まず深夜の萌えアニメを積極的に見て、気に入ったギャルゲーをどんどん積極的に買ってプレイして、そして二次元の女の子を好きになる事です。
時には、バッドエンドに行き着いて失敗する事もあるでしょう。
しかし、失敗を恐れてくよくよしていては前進はできません。
失敗したって、またやり直せばいいじゃありませんか。
人は失敗を乗り越えて人間的に成長していくものです。