はてなキーワード: 恋愛資本主義とは
「けッ! クリスマスなんて恋愛資本主義のハイプだぜ搾取されてろグミンどもぺっぺっぺっぺ!」
好きな人のことは今日が12月の24日だろうが13日の金曜日だろうがだいたいいつも好きだしプレゼントだって「これ似合いそうな」と思えばいつでも贈る(財布に余裕があれば、ね)。ケーキ食いたくなったらデパ地下ででも買って食うし、バカ騒ぎする口実なんて年に一度に限定なんかしなくてもいくらでも作れるようになったよ。
いやなのは24日なんて日付よりもっと大事な今しなくちゃいけないことが微妙に圧迫されること。買ってきたCD聴かなきゃだし本も読みたいしいつもの深夜TVでいつもの就寝前リズムをとりたい。あと「太陽の死と復活の祭り」っていう気分が忘れかけられてることもちょっとイラっとする(もう農耕民じゃないからしょーがないけど)。
んでやっぱり遠くの方で死んだ人は遠くの方で死んだ人で人は万が一じゃなくて万が万死ぬ。死に方は生き方だから残念な生き方を選んでしまう人は残念ながらやっぱりいる。人の生き方を妨げるつもりは特にない。次が出にくくなるようにシステムをどうにかしなきゃだけど、この国だけでも1億人いるからね。こういうのも大数の法則っていうのかな。まぁそれだけだ。
でもおれのなかではそれだけのことと了解が出来てるのにやっぱり不安定気味な友人をその話題性だけでグラつかせてしまうのはかなり迷惑。
そんな感じ。
でも、浮気や行きずりも含めて、一生のうちにたった1人の男
としかセックスしない子なんて滅多にいないわけで。
どうでもいいはなしだけど、うちのオカンは(いまのところ)明らかにそう。オトンがはじめての相手で彼氏。
80年代半ばに交際をはじめたようなんだけど、曰く、当時はいまほど男女交際が乱れていなかったと。
さすがにオカンのような例がメジャーではないとしても、付き合っても3,4人とかそれくらいで、なによりもセックスにまでおよぶカップルもそう多くなかったと。
こういうのって時代とか地域差がすごく大きいものだから、どこぞの社交界かキリスト教コミュニティあたりの例外的な話に思えるかもしれないけど、舞台は地方都市郊外の大学が密集する学生街。もっとヤリまくっててもよさそうなもんだけど、そうでもなかったらしい。
80年代ってポストモダン全盛でみんな差異に戯れってたんじゃないの、とか勝手に想像してたんだが。
あれかね、恋愛資本主義(笑)の完成にはバブルの到来を待たなければならなかったのかね。まだ恋愛が多少なりとも慎み深かった(?)時代の最後の徒花、とか。
以上、そんな母親に育てられたからかは知らんけどこのまえヤラハタ達成した童貞談。
ついでに。
史上最悪の儀礼とか調子乗って断言しちゃってるけど、それはあくまで今日的観点からのおはなしね。
女子を交換可能な財、として見なすなら決して間違っちゃいない。
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20081217/p2
こことか読むとわかりやすい。性の悦びを知らなければ浮気する可能性は低減できるわけで、結果として血族の純潔性はいっそう高まる。
日本でも明治以前は、程度の差はあれこうだったわけでしょ。政略結婚とか。もちろんさっき書いたように時代・地域差があるけど。夜這いしまくりの江戸自体の一部農村とか。
そんでそういう発想の極北として女子割礼はあるのだけど(いやあ人間の知恵って恐ろしいねえ最初に思いついた某部族の父祖は偉大だよある意味)、西洋近代の価値観とは当然衝突するよね、と。
どんな文化にも独自の価値観があるわけで、それを尊重するのが文化相対主義なんじゃないの、と。それでも普遍的な倫理は成立しうる、という立場もあって、まあどうしても衝突するわな。
話がそれたけど、要は他のものさしを知れ、と。枝葉末節だがな。
いちおう断っておけば、俺個人としては女子割礼はナシだけど、それは俺が現代日本の文化に馴染み育ってきたからであって、よその文化がそういうことをしていることについては口出ししないよ、というのがスタンス。
……これって処女うんぬんの議論にも適用できんじゃないの? どんだけ罵りあったところで、結局は個人の内面の問題、「人それぞれ」としか。
それがなんでこんなにも気持ち悪く盛り上がっているのかといえば、実際のところは「処女厨きめえ」という罵倒の欲望だよね。ただ「きめえ」じゃ頭が悪いから、もっともらしく現実の例とか学問とかを引っ張り出してそれらしく見せてるだけ。
あと万人の万人に対する恋愛観の闘争。俺(私でも僕でもワシでもなんでも)はこういうふうに恋愛してきて学習しました俺なりのテツガクがありますだからおまえの恋愛観はおかしい、と。
リア充非難や恋愛至上主義・恋愛資本主義非難は、自分がそうなりたいにもかかわらずそうなれないのと、投影であると思う。つまり、恋愛できない自分を一番格好悪いと思っているのは自分自身で、一番恋愛至上主義にまみれているのは自分自身であるのだけれど、それを直視するのが嫌なので、自分が自分を貶めているのではなく、他者(リア充や世間)が自分を貶めているのだと考え、その他者を攻撃することによって、自己嫌悪を他者嫌悪にすり替えているんじゃないかな。
ちょうど、出世した人に出世してない人が「お前俺のこと無能だと思ってるんだろ」って言って、出世した人が「えっ?」ってなっているのと同じ構図だと思う。
自覚すべきなのはどっちなんでしょうかね。
実のところ、恋愛経験の多寡を基準にして人間を二つの集団に分け、その優劣や上下関係を問題にしているのは、他ならぬ処女厨や非モテ本人であると思う。
リア充非難や恋愛至上主義・恋愛資本主義非難は、自分がそうなりたいにもかかわらずそうなれないのと、投影であると思う。つまり、恋愛できない自分を一番格好悪いと思っているのは自分自身で、一番恋愛至上主義にまみれているのは自分自身であるのだけれど、それを直視するのが嫌なので、自分が自分を貶めているのではなく、他者(リア充や世間)が自分を貶めているのだと考え、その他者を攻撃することによって、自己嫌悪を他者嫌悪にすり替えているんじゃないかな。
ちょうど、出世した人に出世してない人が「お前俺のこと無能だと思ってるんだろ」って言って、出世した人が「えっ?」ってなっているのと同じ構図だと思う。
そういった側面はあるよねえ
だから結局、恋愛資本主義に対する反旗なのかもね、処女厨というのは
それも、非モテなんかよりももっと切実な
なんか悲しいなあ、という口ぶりから察するに、「原理主義者」という言葉がムスリムを貶めている、と感じたのかな。こちらにはそういう意図はないよ。
「原理主義」そのものには本来ネガティブな意味合いはないし、穏健なイスラム原理主義者も当然に存在すると思っていたので(イスラーム主義とかもっと偏見の少ない言葉を使う方がベターだったかしら)そういう批判はちょっと意表を突かれた。確かに原理主義者という言葉は、親イスラーム的な研究者は使いたがらない、という話は聴いたことがあるから、その点は確かに自分の手落ちだと思う。
「正しき非モテの教義に回帰せよ」「非モテの安寧とコミュニティを侵し、非モテを未開人として扱い、恋愛資本主義的な価値観で征服を試みようとするモテに、抵抗しなければならない」というような感じでまとめられそうな態度って、西欧によるムスリム国家の抑圧からの解放を訴える原理主義者の姿勢とダブって見えるなあ、という直感的で安直な態度で持ち出したことは事実だし、十分な検証・比較をした表現ではないのは非難されても仕方がないとこだなあ。まことに申し訳ないんだぜ。
あ、折角だから、増田がもっと詳しい人だったら、イスラームの現状について啓蒙していただければこれ幸い。俺も在学中にイスラム法の先生に教わった程度だから、そちらの方面に凄く教養があるわけではないんで。非モテトークからイスラームトークに発展する、そういう増田があってもいいじゃない・・・(遠い目)
違うんじゃないか。非モテの特徴は「俺はもてない」と外部に対して積極的に吐露すること。黙っているのは単なる「もてない人」だ。もてない人ではなく非モテが浮上してきたのは、もてない人の中の一部が、それを問題であると社会に提示したことにある。したがって、こう分類すべき。
とはいえ、非モテの特徴が吐露であるならば、主張による分類に分けてもいいのだが。
トラバ見て非モテとモテない男の違いにやっと気づいた。目からうろこの発見なのでここにメモっとく。
つまりはこうだな?
モテない男:貧困にあえぐ非正社員もしくは求職者。目標は人並みの安定した生活基盤を得ること。
非モテ:極左の過激派テロリスト。目標は社会を壊して非モテの独裁政権を築くこと。
それで元増田のような人は非モテを上だと思って「生活苦しいなら資格を取るか公務員試験受けてみなよ」とアドバイス。
で火に油を注がれた非モテが「悪辣な官の豚めが!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね・・・」になるわけだ。
ついでにこれも結構核心突いてると思う。
リア充非難や恋愛至上主義・恋愛資本主義非難は、自分がそうなりたいにもかかわらずそうなれないのと、投影であると思う。つまり、恋愛できない自分を一番格好悪いと思っているのは自分自身で、一番恋愛至上主義にまみれているのは自分自身であるのだけれど、それを直視するのが嫌なので、自分が自分を貶めているのではなく、他者(リア充や世間)が自分を貶めているのだと考え、その他者を攻撃することによって、自己嫌悪を他者嫌悪にすり替えているんじゃないかな。
非モテの望みは、自分は一切努力することなく、自分の望みを女が全て叶えてくれることだと思うよ。女を渇望しているからこそ、それに答えてくれない女をあんなに憎悪するわけで。
リア充非難や恋愛至上主義・恋愛資本主義非難は、自分がそうなりたいにもかかわらずそうなれないのと、投影であると思う。つまり、恋愛できない自分を一番格好悪いと思っているのは自分自身で、一番恋愛至上主義にまみれているのは自分自身であるのだけれど、それを直視するのが嫌なので、自分が自分を貶めているのではなく、他者(リア充や世間)が自分を貶めているのだと考え、その他者を攻撃することによって、自己嫌悪を他者嫌悪にすり替えているんじゃないかな。
ちょうど、出世した人に出世してない人が「お前俺のこと無能だと思ってるんだろ」って言って、出世した人が「えっ?」ってなっているのと同じ構図だと思う。
実際には、世間の人は、あまり恋愛に重きを置いていない。普段は趣味を楽しみつつ時々恋愛、彼氏・彼女がいない期間だってけっこうある。一番「恋愛しなければならない」という思いに囚われているのは、世間から見ればごく一部の非モテとヤリチン・ヤリマンなんじゃないの。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c8%f3%a5%e2%a5%c6
もともと「モテ」という言葉から生まれてはいるため、誤解されやすいが、現在の用法としては「非モテ」の対義語として「モテ」が配置されている訳ではないことに注意。「モテ」は第三者による評価だが、「非モテ」は自意識の問題といえる。
「モテる」とは複数の異性から恋愛対象として求められることを指しているが、「非モテ」における「モテ」の意味することは、もっと原始的な、他者(異性だけではなく)から求められるという意味に変化している。他者による承認が得られないという悩みなのだ。
中でも、恋愛経験がないために、一人でもいいから異性に好かれたいという恋愛による承認を求める人が「非モテ」を自称することが多い。「非モテは複数の人にモテたいんでしょ。そんなモテる人なんてごく少数で、一人の人に愛されればいい」というような発言は、非モテという言葉を見かけた時によく見かけるが、これは誤解である。
その一方で、「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人のことを指す場合もある。
(中略)
2004年の『電車男』のヒットにより、「脱オタ」がクローズアップされ、2005年の『電波男』(本田透著)の登場によって、「恋愛至上主義」「恋愛資本主義」への対抗が強く認識され、そういった認識を持つ人をまとめる概念になりつつある。
http://anond.hatelabo.jp/20081012174903
夏だよねー。
恋愛だの云々言うけど、
恋愛資本主義市場における価値基準ってたぶん二極化にあるんだろうなぁ。
強者の論理として
男:やりたい
女:他の女と差をつけたい
ってのが行動の機軸であるような気がする。
「安心できる」とか「楽しい」とかは別に友達関係で達成できるのに
そして、付き合う中で
男:関係の形成後は成り行き任せ
と、気持ちの描く曲線も大きく違ってくる。
ここで重要なのが知識の問題なんだろうなぁ。
各々の脳内で形成されてる「恋愛至上主義」が今、人を躍らせているのだと思う。
中高生では感じられなかった何かに突き動かされるように
関係を作れないものは容赦なく敗残兵の扱いを受ける。
おかしい。何かがおかしい。
私には妻と3人の子を持って幸せな家庭を築くという夢があるが、
彼にあるのは「一生食わせてやりたい」という覚悟などではなく、
「安心したい」という欺瞞の下にある依存と性欲であり、
おかしい。
私は結婚に至るまでには貞淑に身を慎むべきだと思うし、
妻を何不自由なく満足に暮らせるように粉骨砕身するのが男の甲斐性だと思っている。
やがて生まれ(たらいいなぁ)る子どものためにちょっとやそっとではない全身全霊を捧げることだって問題ではない。
家族のためなら死すらも厭わぬ覚悟である。
そして、その覚悟を捧げるべき相手と未だめぐり合えないわけである。
無論、私は童貞だ。
私は恋愛を重く考えすぎであると自覚しているが、
世の人は恋愛を軽く考えすぎなのではないか。
追記
言っておくが、俺は
・風呂入ってる
・歯を磨いてる(口臭対策も超念入り)
・服は買うときは万単位でふっとぶ。
秋葉原の事件で「恋愛資本主義の弊害」という意見を見かけるけど、
やっぱり人間だって動物なんだから異性と関係を持ちたいとか、誰かに愛されたいという欲望(性的欲求とか親和欲求?)からは逃げられないと思う
それはこの間BShiでやってた「芽生えの春 ベトナム・花モン族の見合い祭り」という番組を観た時にも強く感じた
あれは生きる為みたいな部分が強そうだけど、見てるとやっぱり個々の生物的な欲求が関わっているのが分かる
日本みたいな発達した文化の中で生きていると、愛だの恋だの言ってる奴は低俗に見られがちだけど
本当は誰だって子孫繁栄の為の本能を持って生きているし、愛されたいという欲求もある
だから非モテだってそこに拘り続ける
ちなみに今睡眠欲と闘いながらこれを書いていますおやすみなさい
話を戻すよ。
えーとね。何で彼ら非モテが「社会が悪い! お前らが悪い!」って言ってるか、わかってないみたいなので解説します。
あのね。君に似た人たちがずっと「モテないのはお前の顔が悪いからだ」「ふつうの人がふつうに出来ることを出来ないのは、自分に能力がないからだ」と言い続けてて、実際にモテない人たちもそう思いこまされて自縄自縛の陥穽にどんどんはまりつづけている。っていう状況があった。
そこで「これっておれらあまりに苦しみすぎじゃね?」っていう自己認識がなされ、現状に対するカウンター、バランスとしての政治的言明が「違うよ! 社会が悪いんだよ!」なの。
実際のところ、モテない人が持つモテない要素には、自己に起因するものもあるし、社会が生み出したものもあるだろう。それは割合問題だし個別具体に違うし。そんな現状認識は正しいけど、だから?
未来への意思を含ませることも出来る。
非モテのプロパガンダは、あなたみたいな「だから非モテはウザいんだよ」「自己責任だろjk」って人も生み出したけど、おれみたいな「確かに。恋愛資本主義ってのはあるよね」「己の努力不足以外の要因もあるよね」と考える人間も生み出した。(cf. http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//anond.hatelabo.jp/20080409152441
これまでがほぼ不可視だった問題、「議論の余地もない」と思われていた問題に、目鼻を付けて明確な論点・争点を見つけ出した、というのは評価されるべきじゃないかな。