はてなキーワード: ナギとは
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51176821.html
えーっと始めに言っておくとNTRおよびMC属性がある僕には美味しい事件でございました。むしろ作者の方向性からしてシンプルに見えて蓋を開けたらグロテスクというのは見所だと推測し、この騒動を聞いたときには「ぉぉやっときたか!」というwktk感があったものです。
かんなぎラジオでも監督と脚本が「アルコール度数低いと思ってたらなんだこれ濁酒だった(笑)」と話していたように、見かけ上は少年誌漫画の体裁を取りつつも、鋭い社会風刺とシリアス・鬱展開を内包し、ドロ沼へ徐々に滑走していく作品であることは巻を進めるごとに明らかになっていき、それがこの作品の魅力であったように思うのです。
ただもちろんターゲット層がこういったドロ沼展開に耐性のある人々ではないのは明白であり、
http://d.hatena.ne.jp/speed_mod/20081111/p1
> そもそもキャラクターの魅力的な個性に重点を置いたアニメなんだから、キャラに思い入れをしてはまっていた人たちからすれば、今回のネット騒動は当然のことなんだろうなと思いました。
とここでも書かれているように、この作品の読者が非処女バッシングを行った過程は至極自然・妥当なものであるように思います。この作品を大衆的な視点で見ればまず第一にキャラクターの魅力が挙げられるのは明らかだと思うので。
しかし、原作にしろアニメ版にしろ、序盤の展開の余りに爽やか過ぎるボーイミーツガールでライトに萌えを享受したいオタク層を「釣り」、それを盛大に裏切る形となった今作品、作者が意図的にやっていたのかどうかは不明ですが、これは非常に興味深いことだし、タブーを打ち破る大きな波紋だったと思います。
某スレより:
> 634 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/11/08(土) > 00:32:30.90 ID:5C2fyyZT0
> アニメで釣られて単行本買い始めた人間も多いだろうし絶妙のタイミングだよな
> 狙ってやったのならこの作者相当の策士だぞ
> 201 :なまえないよぉ〓 :2008/11/16(日) 11:08:28 ID: h5qTXh49
> この作者はガチでアホだな。
> なんであんなマンネリなマンガの「ああっ女神さまっ」が20年くらい
> 続いてるのか考えてみれば良い。よけいな男が出てこないからだよ!
このように、意識的あるいは無意識的に大衆の琴線に触れる部分を捨象する狡猾さがあれば、萌え目的の作品は大衆性と金銭的成功が得られるのでしょうね。そう思えば、そのまま騙し騙し餌を与えてやれば安泰であったところを、敢えてリスキーなタブーを犯してまで泥沼展開に持っていった作者にはある意味で凄い。(大衆性を意図したはずのミスリードであったのでなければ)
そんなわけで僕としてはかんなぎの次回連載で、タタリ神になって穢れて悪コス黒肌になったナギたんがどのようにして仁に言葉攻めしたり以下略するのかが楽しみです。と同時に表面上の腹黒さが取り払われて逆に清純化してきたざんげちゃんであるとか、単純に物語として面白いのでこれからも読んで行きたい作品だ。
人間死んだら終わりなんだ。善人も悪人も、汚い黄泉に落ちるんだ。
だから死んだら悲しいんだ。ギャーギャー泣いて当然なんだ。
俺も泣きたい。電車の床を転がりながら、泣き叫びたい。
追記。出典は、『玉くしげ』でした。かなづかい等、我流でなおして引用します。
さて死すれば、妻子眷属朋友家財万事をもふりすて、馴れたる此世を永く別れ去りて、ふたたび還り来たることあたわず、かならずかの汚き黄泉国に往くことなれば、世の中に、死ぬるほどかなしき事はなきものなるに、かの異国の道々には、或いはこれを深く哀れむまじき道理を説き、或いは此世にてのしわざの善悪、心法のとりさばきによりて、死して後になりゆく様をも、いろいろと広くくわしく説きたる故に、世人みなこれらに惑いて、その説どもをもっともなる事に思い、信仰して、死を深く哀むをば、愚かなる心の迷いのように心得るから、これを恥じて、強いて迷わぬふり、悲しまぬ体を見せ、或いは辞世などいいて、ことごとしく悟りきわめたるさまの言葉をのこしなどするは、皆これ大きなる偽のつくり言にして、人情に背き、まことの道理にかなわぬことなり。すべて喜ぶべき事をも、さのみ喜ばず、哀しむべきことをも、さのみ哀しまず、驚くべき事にも驚かず、とかく物に動ぜぬを、よき事にしてたっとぶは、みな異国風の虚偽(いつわりかざり)にして、人の実情にはあらず、いとうるさきことなり。中にも死は、ことに哀しからではかなわぬ事にして、国土万物を成し立て、世の中の道を始めたまいし、イザナギ大御神すら、かの女神のかくれさせ給いし時は、ひたすら小児のごとくに、泣き悲しみ、こがれ給ひて、かの黄泉国まで、慕いゆかせたまいしにあらずや。これぞ真実の性情にして、世人も、かならず左様になくてはかなわぬ道理なり。それ故に、上古いまだ異国の説のまじらざりし以前、人の心なおかりし時には、死して後になりゆくべき理屈などを、とやかくやと工夫するようの、無益のこざかしき料簡はなくして、ただ死ぬれば黄泉国にゆくことと、道理のままに心得ておって、泣き悲しむよりほかはなかりしぞかし。そもそもこれらは、国政などには要なき申し事なれども、皇神の道と異国の道との、真偽の心得にはなり侍るべき事なり。
※12.25追記:すいません、ネタばれなのでやってないけどこれからやるつもりの人は読まないでください。書くの忘れてた……そういえば正式発表されたんですかね?これでデマだったら涙目。
最初この情報を知った時の感想は「へー、そうなんだ」でした。んで葉鍵板やら各種ブログやらを見て回って、あまりのウブな反応っぷりに吹きました。「リトバスにエロはいらないだろう……」「友情の物語が崩れる」「ショックです」などなど。う、ウブすぎる……。その割に「エロエロなアフターもの、FDなら良かったのに」という意見は多い。なんという解離。というか、未だに智代アフターがトラウマなのでしょうか。兎にも角にも、実にウブな「リトバス大好き!俺のリトバスを汚さないで><」というご意見の数々に大変、心温まる今日この頃です。
感情的な「エロはやめて」的言説は置いておくとして、エロを入れると「リトバスの構造的に不味い」という説は考察してみたいところです。これはつまり「リトバスは虚構世界をループする中で理樹(と鈴)が成長していくお話だから、構造上、全ルートを理樹(と鈴)は体験しているという前提が成り立つ」ため、単なるマルチエンディングと違い、トゥルーエンドの理樹きゅんは「みんなと致した」末の理樹きゅんになってしまうということです。しかも、回避策として浮かぶ「バッドエンドえろえろ作戦(別名:ナギー夢現エンド方式)」ですら解決できないのが厳しいところ。だって理樹きゅんの繰り返しの中にはバッドエンドも含まれているわけだからね(いくつかのバッドエンドにおいて、次の世界を示唆する言葉は散見されます)。小毬発狂エンドや美鳥バッドエンドでのえろえろは容易に思いつくだけに惜しい。実に惜しい。しかし本当にそうだろうか。本当に「不味い」のか? 実は、全然不味くないんじゃないか? なぜキスはよくてエロはだめなのか。ラストでヒロインたちはキスの話をしているじゃないですか。そもそも「みんなと致した」末のトゥルーが不味いなら、各ルートそれぞれ、恋愛関係になっている時点で不味いし、その時点で「不潔です><」とか批判しないといけないわけです。事実、そういう批判もあるはずです。でも、その構造は受け入れておきながら、いざエロが絡むとなったとたん「不潔です><」は無いでしょう。
個別ルートで純愛を語りながら、それらを渡り歩く美少女ゲームに必須のスキルを、とある偉い人は「解離」と呼びました。リトバスも最初からエロありだったら、この解離スキルを使いこなした歴戦のユーザーはエロ部分を含めて「面白かった」と言うでしょう。「Keyにエロはいらない」というお決まりの言葉は当然出るでしょうが、それはもうお約束みたいなものです。ところが、一度「エロなし」の物語を見てしまった僕らは、いざ「エロあり」になった瞬間、解離がうまく機能させられなくなってしまっています。何を今さら的なウブな反応は、ひょっとするとこの部分にあるのかも知れません。ToHeart2の場合と違って、明確に「共に様々な困難を乗り越えてラストに至った理樹きゅん」との記憶を持つだけに、この解離は困難を極めるというのが正直なところなのでしょう。
だが待ってほしい。逆に考えるんだ。だからこそリトバスのエロはかつてないほどに興味深く、Key史上でも類を見ない独特な魅力を放つ可能性を秘めています。そもそもエロとは禁忌であればあるほど魅力を増すもの。Keyのエロは予てより「予定調和的」で「不必要なもの」としての位置を占めてしまっていたがために「必要のないもの」として処理されてきました。当然です。エロゲーというフォーマットだからエロがあって当たり前。ここから「ずらす」ために麻枝准はAIRを作ったわけです。ナギーの「バッドエンドでのみエロ」はエロゲーのかつての機能からすれば奇形だったわけですし、観鈴ルート→AIRルートに至って完全にエロゲーとしての梯子の数々を外しまくったのも、Keyがエロゲー屋さんであるという前提があったからこそ機能しました。翻って、CLANNADで完全にエロなしとなったKeyは、リトバスもエロなしになって「もうKeyはそっちなんだね」という印象を刷り込むことに成功しました。そこでエロ。そりゃあみんなびっくりするよ。リトバスは元々エロでもいけるように作っているのですが、ユーザーとしては「エロなしで当たり前」なのがリトバスです。「エロなしで当たり前」のはずの物語でポルノグラフィーが展開するという禁忌。遣り様によっては、Keyの新しい世界が見えるかも知れません。そもそもリトバスは実験色の強い作品であり、今後の「ポスト麻枝時代」を築くための礎という位置付けがなされているのは容易に想像がつくというもの。どんどんやってほしい。なんでも試してほしい。それを受け入れるだけの余剰が、あのリトバスという途方もないゲームには含まれていると私は信じています。
「ぼくらの」の感想をたまに見て回ったりすると、「悲しい」「暗い」という文字ばかり目にする。「ぼくらの」は全然暗くないと思っている私は、それでたまに不思議になる。「悲しい」話であることは確かだけど、それは明るい悲しさ、すっきりする悲しさだと思う。「暗いぼくらの」というのは例えば、モジのことなんてどうでもよくてすぐ忘れてしまってただ単に助かったことを喜ぶツバサとナギ、みたいな、ダイチが死んで一家離散、弟妹は悲惨な将来、みたいな感じではないか。「ぼくらの」は基本的に死に際を見せる話で、それは大体(カコを除いて)、"満足できる死"として書かれていると私は思う。彼らの死は無駄にはなっていない(地球を救うことはおいておいて)、と書かれていると思う。
なので読んでて暗くなる、とか、カタルシスがない、という感想には「??」となる。受け止め方の違いだといってしまえばそれまでだけど、チズの回なんて吹っ切れた明るさがあって私は大好きだ(故にアニメは好きではない)。