「作られた話」ということが分かっていても、「キャラクターは画面を飛び出してこない」ということが分かっていても、自分が大きな影響を受けざるを得ない。そのとき涙を流してすっきりして終わりにはできない。忘れたくないと思ったセリフや本気で好きになったキャラクターが誰にでもあ(り、それらが自分の現実世界での生き方に影響を与えていることも全く珍しくないはずです。)ると思います。しかしわたしたちはそんなふうに没頭してしまったフィクションの世界から離れ現実世界に視線を戻すのに大きな痛みを伴う。大好きなキャラクターは現実にはいないからです。それは作られた話であり、実際に自分に起こった事実ではないということを思い出させられるからです。
でもその痛みもまた美しいと思うときもあります。何もかも作り話だと分かっていても、それでも物語やキャラクターを本物と思いたいという矛盾した気持ちが、何が「本物」なのか、わたしが物語やキャラクターに強く心惹かれる理由の核となる部分はなんなのか考えさせ、その経験こそが現実世界のわたしたちの生き方に影響を与えていきます。「嘘だからこそ嘘の中の本質を見抜きたくなる」のです。単に暇つぶしで読み始めたはずの物語で、別にこの先内容なんて覚えていなくても構わないのに、忘れたくないと思うのはなぜなのか。自分の中に生まれてしまった「本物の」キャラクターの人格を殺したくないと思うなら、わたしが彼(女)の言葉を覚えていて、胸に刻んで生きていくほかない。彼(女)が主人公に伝えたかったことは何なのか。これからわたしはその言葉や生き方を胸に刻み、(現実世界で)どうやって生きていくべきなのか。物語の終わりと、現実世界とのギャップという痛みが、わたしたちにより深く物語そのものの意味を考えさせ、現実世界での行動の変化を迫ります。
わたしは、鳩岡小恋さんがその痛みも含め「フィクション」や「ヒロイン」というものを愛していたと思います。わたしは彼女が「やむを得ず」フィクション的な語彙を使ったのではなく、彼女自身がフィクションの中のヒロインを大好きになり、そのヒロインが現実世界にはいないというギャップに苦しみ考えさせられたという経験が、彼女に「ヒロイン」という言葉を使わせたのだと思います。