発達障害に理解のある優しい彼くんがいて幸せだねといつも周囲からは言われる。
自分を客観的に眺めても不注意優勢型ADHD、ASDのこのポンコツ女と
でも理解ある=本人の生きづらさの真の解消にはならないのだとやっと気づいた。
例えば。
いま私が問うているのはAのことであって、
Aのことを議論したいのにいつも彼の話のまとめ方が
「▲▲という理解の仕方ならこういう言い方は悪かったよね、ごめんね」
でもそれを言われたら、結局は脳みそがポンコツである私しか悪くないのであって、
私にそもそも問題があるからAの現象が起きているとしか解釈できない。
結果としていつも私が話したいAの話は流れ、
そして私が謝った後には、二人で特性を理解しながら協力して生きていこうという明るい締めの言葉が待っている。
事故物件の人間に付き合ってくれている彼には感謝しかないのだが、
生きづらさを抱えながらも一緒に頑張ろうという励ましの
大前提には「お前の脳みそがポンコツだ」という前提が明け透けに横たわっている。
生まれつきの境遇に耽溺するな、寄り添ってくれる人に感謝しろということはよくわかる。
が、いつもかけてくれる明るい言葉の前提には「私の脳みそが劣っている」という、逃げようのないマイナスを毎回突きつけられている、
そうやって自分のダメさをありありと目の前に出されて、自覚させられた中で
何をどう頑張ればいいのかと本当に泣きたくなる。
与えられた生の中でチャレンジすること、トライすることが人生の楽しみだとして、
男女逆にしてみ 成立しないから そもそも理解のある彼女が存在しないから