本物のゲームってのはさ、運に見えて運じゃねーんだわ。
究極を言えば全てのゲームは運ゲーなんだけど、運の質が違うんだよな。
本当の本当に究極だけど、たとえば将棋のプロ同士の対局で本当は詰んでるけど相手が見落として、そのまま試合が続いてる時に詰めろをかけた側が脳卒中で突然死したら、それまでの過程関係無しで詰まされていたはずの側が勝ちになるわけだろ。
そういう運はどんな世界にもある。
だけどそうじゃない運がある。
その2種類の運の間にある無限の可能性がゲームに深みをもたせる。
そのバランスがゲームの運ゲーとしての質であり、全てのゲームが絶対にファクターとして持ち合わせる部分なわけだ。
要するにそのバランスが崩れてしまうと蔑称としての「運ゲー」になってしまうわけで、それは本物のゲームじゃねーんだわな。
ボードゲーム大国ことドイツじゃあ、正しく運が絡むゲームは本物のゲームとして愛され、「運ゲー」も偽物のゲームとしては愛される。
でも偽物のゲームってのは結局の所、酒の肴や子供と一緒に遊ぶためのおままごとでしかねーんだ。
やり込むほどにかえって本物のゲームがやりたくなる。
本物の世界、運が勝ち負けの言い訳から、残酷な現実として襲ってきて、それを読みきれなかった自分こそが悪かったと本気で悔しくなれるゲームをやりたくなる。
だが本気でやり込んじゃいけねーんだ。
双六やってるときにダイスロールを完璧に決めて毎回6や5が出るように踏ん張る奴らが増えてきたら萎えるだろ?
今のウマ娘はそこに辿り着いちまった。
おままごとの終わりなのさ。
そっから先を、おままごととして面白く出来るか、それとも本物のゲームを目指すか、それが問われているんだが、運営はどっちかに決めるのを怖がって時間稼ぎだけしかしてねえ。
だがそれが結果として、一部のプレイヤーに「おままごとに全力を出しちまう俺様」という狂った狂騒を与えて何とか形を保ってる。
その狂騒が崩れ去ったとき、どうなるかだな。