とあるアニメの感想で「なんだよ、結局このヒロインは主人公のこと好きなのかよ」みたいなことを
割と本気の口調で書いてるレビューがあって、それ読んだ時に二重三重に衝撃を受けたんだよね
まずそのヒロインが明らかに主人公のことを好いているというサインは、それまでの場面で何度も何度も描かれてたわけ
たとえば溜息、たとえば目線、口角の動きや様々な仕草、口調だったり態度だったり、なんならカメラワークや光の加減なんかも含めてすべてがそういうサインだったわけ
でもそれってある種の共同幻想というかさ、まあ言ってしまえば「オタクの文法」みたいなのに慣れた人じゃないとわかんなくて当然なのかもと思ったんよ
なんたって現実世界にカメラワークなんてないしさ、他人の目線の動きなんていちいち観察しないでしょ
つまり我々がそういうある種の、感情に対する機敏さみたいなのを発動させるタイミングってもうアニメ見てる時か漫画読んでるときくらいしかないんだよな
で、もうひとつ衝撃だったのは
その感想書いた人はどうやら、「ヒロインが主人公のことを好いていない可能性」というのを割と無邪気に信じてたらしいということにもびっくりしたわけよ
だってそんなの信じられないでしょ、この類のアニメでまずヒロインが主人公に好意を持ってないっていうのが、それこそ色々なサインを描写して明示的に伝えてこない限り、まずありえない
で、そうか、我々は特段の言及がなければヒロインは主人公に好感を持っているものだと無意識に前提しているんだな、ということにその時気付かされたわけね
そういうのもある種のリテラシーと言えるのかなって
推理小説では犯人を当てるための情報は描写の中に必ずあるとか、そういう、誰かに教わったわけでもないけどそういうことと思ってる前提みたいな