2020-01-02

思い出を食べるということ

獏という生き物は人の夢を食べるという。では夢とはなんだろう。科学的にもそれは結論が出ていないそうだが、私は夢とは思い出なのだと思う。もちろん夢として発現したとき、思い出とはとても言えないような荒唐無稽な内容になることもある。でもそれでも、その夢を作ったのは私たち記憶であり、すなわち思い出なのだ。つまり獏とは、人の思い出を食べる生き物であると言える。

ではなぜ獏は思い出を食べるのだろうか?それは簡単だ。甘美だからだ。人の思い出はいつも美しい。甘いとは限らない、苦いかもしれない、酸っぱいかもしれない、しかしそれは甘美な苦みであり酸味である特に他人にとっては。一度その味を知れば、もう人は人間には戻れない。獏という化け物として生きるしかない程に。

突然だが、皆さんは男女の友情というものを信じるだろうか。意見割れる話だと思うが、私はそれは儚くも存在するものだと思っている。儚いからこそ美味しいのだ。

女を抱くときに、最も燃える要素はなんだろう。美しいことだろうか、魅力的な体をしていることだろうか。それらも勿論大事な要素だ。だが、バックグラウンドの、思い出の量が最も大きな燃料になると私は思う。長年の友人を抱いた時、困難なプロジェクトを切り抜けた職場の同僚を抱いた時、そしてその関係がただ一時の快楽に終わらず、私たち関係を蝕んでいくことを感じながら彼女たちを抱くとき、私はこの世のものとは思えない快楽を感じる。快楽を感じただけ大切な思い出を失っていることに、たまらない快楽を感じるのだ。私の心も、相手の心も思い出のあの頃から変質し、ただお互いを貪っていると感じている時のあの幸福感を、どうか皆さんにも味わって欲しい。

一つ覚えておいて頂きたいのは、思い出は有限であるということだ。いつかあなたはそれを食べ尽くしてしまうことだろう。だが、限りある思い出を意地汚くも最後の一滴まで貪るあの快楽を、どうかあなたにも。

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  • 人間関係をそういう風に捉えるのは趣深いね。 食べずに取っておいてもそのうち腐ってしまうものだし。 一番美味しい時期に食べて忘れてしまった方がいっそ後腐れがないというものだ...

  • ザク→バウ→バク

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