25歳になっても、人生というものの楽しみ方がさっぱりわからない。
齢25でそんなことを言ってても、チャンチャラ可笑しいかもしれない。
まずは、だ。私には趣味がない。覚えている限り13歳の頃ぐらいからだ。
これは12歳の頃に精神的に參って10年ほど、ノイローゼになっていたことが原因の一つだと考えている。
覚えている限りと枕詞を使った理由は、私は過去の記憶が薄いからだ。
旅行に連れられていっても食事にいっても、数カ月後には覚えていない。
12歳以前のことはよく覚えていない。もしかしたら趣味などなかったのかもしれない。
趣味に対し非常に高い幻想をいだいているのかもしれない。
次に、私には友人、恋人などはいない。
趣味もなく、記憶力もなく、ここまで読んだ方は察しているかもしれないが、卑屈な人がどうやって人と仲良くなれるだろうか。
いや、なれるのかもしれないが、自分のような人と楽しく過ごせる時間が想像つかない。
「自分を愛せないひとは真に他人を愛せない」。愛せない人は愛されない。そういうことだ。
友人がいたのは二年程度だが、その頃の感情は上手く思い出せないので、
友人だとか、恋人だとか、そういうものに趣味と同じく幻想をいだいているかもしれない。
人を楽しめるすべが分からない。
最後に、私には悪意の楽しみ方が分からない。
ここまで卑屈で孤独で趣味もない人間の私だが、人を傷つけて楽しむことができない。分からない。
インターネットを渡り歩いていると数多の悪意を見る機会があるが、ああいう楽しみ方は出来なかった。
楽しいと趣味もなく、孤独な私にとっては、悪意をかざして楽しむ、そういうことすら羨ましく感じる。
これも幻想をいだいているのかもしれない。
正義感でやっているのであれば、おそらく感じるのは楽しいではなく怒りだろう。
けれども楽しむ手段がないのだ。意図して彼らの気持ちをシミュレートする余裕はない。
楽しみ方が分からないが、私が死ぬことで他人の楽しみが奪われることも知っている。
楽しくなくても人生を続けなくてはいけないのだ。
だからせめて静かに生きさせて欲しい。
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