意味とか意義とか価値とか役割とか逐一そういうものが求められる社会で私も色んなものにそれらを求めている。
しかし私は未だ自分の人生に、生に意味を見出せていない。つまり私は私自身に価値を見出せない。何のために生きているのか。答えなんてない。それが私の答えだ。私の生は惰性だ。仕方なく。本当はこんな楽しくもない人生早々に辞めたい、けどそんな度胸もないから仕方なく食べて寝て呼吸をしている。
こんな思考に陥った人は私以外にいるだろうか。きっと予想よりいるのだろう。そこで自分で価値を見出せないとなると自分に価値を見出してくれる他人や居場所にすがるのかもしれない。
しかし、だ。私はそれでも足りないのだ。他人に認められても褒められても必要とされても、結局最後に自分で自分を突き放す。
私が良い子だと褒めてくれる先生がいた。勉強が出来ると褒めてくれる人がいた。可愛いと言ってくれる人がいた。私の特技を褒めてくれる人がいた。私を優しいと言ってくれる人がいた。私を好きだと言ってくれる人がいた。
それでも私は私を認められない。
本当はこんなにも誰かに認められたい、私の苦しみに気付いてほしい、今まで頑張って生きてきたことを褒めて欲しい、だけど何故かいざとなるとその言葉を素直に受け止められない。自分で自分を無価値だと思っているからだ。だから褒められても自分は本当はそんな人間じゃないと内心卑下する。
一体この思考回路は何のために身に付いたのか。私にとって何の得にもなっていない。けれどこのネガティブな思考を捨てることができない。分かっている。自分が変わらなければずっとこのままだ。だけどまだ私は自分が泣きながら誰かの生きたかった今日を無下にしてでもここに居たい理由を見つけられないのだ。
もし本当に人間の生が無条件に肯定されるとしたらそれは生きる義務だ。権利ではない。最高の理不尽だ。私にとってはこの世に生を受けたことそれ自体が理不尽だしこれまでの人生だって理不尽なことだらけだ。
他の人も多かれ少なかれこんな風に考えたことがあるんじゃないのか。みんな生きづらさを抱えながらそれを隠して必死に生きているのだろうか。だとしたら私もまた明日からそうしなくてはいけないんだろう。でも本当は、思考停止したままの自分にいい加減嫌気がさす。
> 私はそれでも足りないのだ。他人に認められても褒められても必要とされても、結局最後に自分で自分を突き放す。 >それでも私は私を認められない。 なんか自分と似てる気がす...