最近聞かなくなってきた、ヤンキー・マイルドヤンキー論。2014年くらいに一時期関連本がでて、斎藤環さんの言葉を鵜呑みにしていた自分。我ながら滑稽。後出しじゃんけんっぽくてズルいんだが、この「ヤンキー論」ですらオタク達の一時の清涼剤に過ぎないんじゃなかろうかと、何処かでは思っていた。私も立派なオタクだから言わせてほしいが、オタクはまず興味関心の占める範囲が、ヤンキーの人たちと比べて、狭い。物理的な意味で視野が狭い。私の好奇心、私の興味関心、私の本棚、私のプレイリスト、私のベスト10など。あらゆる「私の」を所有しようとしている。私は例えば好きな作家のひとりの中島義道さんを、「私の先生」という意味付けを行っている。私だけの、というtagをつけて初めて安心して作品鑑賞に移れる。では自分が中島さんの哲学領域である、カント哲学や、時間論が好きかと言われればそうではない。私は、私の先生というtag付けされた、特殊な中島義道の語る「カント哲学」や「時間論」が好きなだけだ。もう一例上げると、町山智浩さんの映画評もそうだ。例えば私はターミネーターシリーズが好きだったが、町山さんの映画評を読んでから、私の好きな町山さんが好きなターミネーター、という特殊なtag付けがされたターミネーターが好きになってしまった。要するに、このtag付けという行為、私の所有であるという意味付け行為そのものが、オタク的と呼ばれる要素なのではないだろうか。好奇心の向くものはすべて「私」という意味がなければならない。そんなmissionを自分に課して楽しんでいるのが、案外オタクの生態なのかもしれない。