「シン・ゴジラは311の経験を前提にしないと外国人には理解し辛いのでは」というコメントを何度か見かけて、
911の後に出されたアメリカ映画が、911を前提に再生とヒーローを必要としているような映画が多かったことを思い出す。
あれこれそのものズバリな映画もあったけれど個人的に印象的だったのは
割と近いタイミングで久々に「スーパーマン」を復活させ…にも関わらずひねりの全然ない王道的ストーリーだったのが、
これはいまそういう王道アメリカン魂が必要だと思ったから作ったんだなという気持ちになった。
あとコミックの方でスパイダーマンが911を見下ろすのとかも、公式が日本では避けられがちな時事ネタやってたことに驚いた。
たくさん渡ってきた米映画の数々に傷みはたくさん残っていて、けれどそれはお昼の映画特集では窺い知れないものだし
…っていうことをつらつらと考えていたら、ふと思い出して。
pixivに「日本頑張って」のタグで投稿され未だ残っている3323件をぼんやりと見ている。
賛否両論。当時の自分はむしろ憤る側で投稿も閲覧もしなかったけれど
投稿している本人を含めて何かのケアになったのなら、創作の力というものがそれこそゴジラを描くような力が自分にはなくても
当時積み上げられていく数字の一部になっていたらもっと違うことをいま思っただろうか。
などと思うけれど、やっぱり当時のひりつく…通り越して熱い温度を思い出すと恐怖しかわかないし自分は同じことしかしない/何もできない気がする。
シン・ゴジラの中に「いまの温度」が込められているのと同じぐらい、三千件の中にあのときの…ぐちゃぐちゃとしたいろんなものを思い出す。