わざと主語述語などを省いた文章を書く様になり出したのはいつからだろう。
叫びたいけれども腹の底は見られたくない、
聞いてほしいけれども裸にはされたくない、
吐き出された私の感情を知ってほしいけれど、
私が何者であるのか、知られたくない。
辛くて辛くて仕方ないのだけれど、
それを私のことを少しでも知っている人間に言うと、
その程度のことで、とか、みなよくあることだ、とか、
こうすればいいんじゃないか、とか、呆れられたり、他者と比較されたり、気遣われたりするのが嫌だ。
具体的にどうこうすればいいとかいう分析に突入されるのが嫌だ、嫌だ、いやなんだ。
相談結果は私の薬にはならないんだ。相談はプレッシャーを増やしていくばかりなんだ。
己が辛いということを知ってほしいという、なんとまあ、文字にしてみると、なんともいえない気持ち。
何がどう具体的に辛いのか語りたくて語りたくて仕方がなくて、本当は、すごく、すごくかまってほしくて、
物語を、物語を語りたくて、でも唾を吐いて語る自分というものを俯瞰すると、
かっこ悪くて、すごく情けなくて、痛々しい。だから何も言って欲しくなくて、
ただ、こちらを見て、私を見て、聞いてくれているだけの相手がほしい。
私のことを何一つ知らない、ただの聞いてくれるだけの人がほしい。
次の患者さまとかいう制限時間や、スタンプを押すような診察券が要らない人。
ありがたいお話なんて、仏の教えの書かれた紙なんて、いりません。
ただ、私と赤の他人という関係を維持したまま、私の嘆きを、抱え込みすぎた秘密を、を知って欲しいんだ。
後ろめたいものを、友人知人家族には知られない遠い何処かの誰かに、託して、杉の木の下に、埋めて欲しい。
痛々しい自分の姿を肉親友人知人全てに知られたくない。冷めた目で見られたくない。
けれども痛々しい様な自分語りで肩の荷を下ろしたくて下ろしたくて仕方がない。
それだけなのかもしれないが。
チラシの裏に書くのじゃ満足できない。
やっぱり誰かの目に触れてほしいんだ。
よくわかんないけどなんか苦しんでる奴がいる、って。
赤の他人に知られるだけでなんか、ほっとするんだ。