まずビューティフル・ドリーマーはうる星やつらを間違った解釈をした作品で
なおかつ当時のオタクはビューティフル・ドリーマーの解釈を正しいものとして
恐ろしいことに原作の解釈こそが間違ってると言い放った作品なんだ
何よりも、その間違った解釈が後の作品に影響を与えてるからうる星やつらの原作そのものよりも重要視されてるんだ
この間違った解釈は二つあるけど
一つ目は舞台裏であっても許されない「俺は他の女の子と同じくラムにもきっちり惚れとる」って発言、これは原作者の怒りを買って後の完結編での「今際の際でも言ってやる」っていう相反するセリフにも反映されてるから分かりやすい
ところがそう見えてラムとあたるの関係って今に至るまで原作者以外に回答が出せない複雑さがある
宮﨑駿をしてラムがどういうキャラなのか理解できないものがある
浮気ばっかりして電撃を食らわしてため息をついて、それでもあたるから離れられないラムってキャラクターを男の視点から理解することは不可能だった、宮崎は女の怨念みたいなもの塊って評価を下してたけどまぁ実はラムは女じゃないとその心情を理解できないキャラで
そのキャラを男、それもド童貞のオタクにも理解しやすい(望んでいる)形に曲解したのがビューティフル・ドリーマー以降のラムなんだ
言うなれば肉ある現実的な女性像だったラムをオタクが好む神格化、夢見る巫女にしたのがビューティフル・ドリーマーのラムで
その解釈を元にあらゆる不思議な現象の中心に居たのがラムだったという明らかに間違った解釈で作られた三作目、リメンバー・マイ・ラブにつながるんだ
で、この神格化された実在しない女の子像こそが90年代のオタク作品に繋がるからオタク史において原作より重要視されるんだよ
構造的に、天地無用やtoloveると似通ってるのに明確に違ってる理由が原作はそういう作品として意図して設計されてないというところにある
(まとまったら追記)
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