役所においてある書類を書くためのボールペンを家に持ち帰ってはいけないのはボールペンがみんなのものだからだ。図書館の本を破ってはいけないのは本がみんなのものだからだ。公園の遊具を大切に使わなければいけないのは遊具がみんなのものだからだ。
昔から子供にしつける時などに使われてきた「みんな」という言葉。
この言葉についてふと疑問に思う時がある。もし、文字通り「みんな」のものであれば、その集合に属する「わたし」のものでもあるということだ。
「あなた」のものでもあるし、「彼」のものでもあるし、「彼女」のものでもある。
では公共の場所にあるボールペンを持ち帰ってはいけないのか。みんなのものであるならわたしのものでもあるはずである。
答えは簡単だ。「わたし」も「あなた」も「みんな」という集合に属していないからだ。
そもそも「みんな」は集合ですら無い。「みんな」というのは個人なのだ。
あるものを使用したい個人の集合があると仮定しよう。
この集合に属するすべての個人が不利益をなるべく被らないように、所有の代表格として概念的な個人「みんな」を形成するのだ。
「所有」というのはもともと原則的に一対一関係でしかありえない。
つまりあるもの一つを所有する人はある個人ただ一人であるということだ。
「みんなのもの」というのは便宜上ありえない。使用数の割合や使用時間の割合で確実に所有している度合いが変わってきてしまうからだ。
一度所有のバランスが崩れればもう「みんなのもの」ではなくなってしまう。
みんなのものが成立しているのは「みんな」が集合ではなく個人であるからであり、「みんなという誰か」の所有物であるという暗黙の了解があるからだ。
一度も役所に訪れたこと無い人と、毎日役所に訪れて書類をかくための「みんなのボールペン」を使用している人とではあきらかにその所有のバランスが異なる。
でも一度も役所に訪れたことが無い人は文句は言わないだろう。
"図書館の本を破ってはいけないのは本がみんなのものだからだ。"
百年遅れの太宰治はもうええで…
どうも勘違いしているようだけど、図書館の本は図書館が所有するのであって、『みんなの物』ではないよ。 役所のボールペンも、役所の所有物であるので、持って帰りゃそりゃ窃盗罪...
だがちょっと待ってほしい。本を作るために消費された木材という資源。それはまぎれもなく「地球」が保有していた資産そのものであり、所有者なんて存在しなかったのではないだろ...