学は理沙だけの神となったが、神とは一般性を持ち人の制御化に置かれないものを言う
まどかマギカで、ほむらがまどかという神に執着し、その一般性を侵し制御しようとしたことは記憶に新しい
そこにはキリスト教における普遍的な愛と、それより一段下の個人的な愛との対決があった
「神様/世界は人に無関心である」という自覚もあった上での発言だった
個人的な神になると言うのはつまり、幼児的な万能感を満たす道具として、奴隷になり下がるのと同義であるし、人と人との対等の関係など望めない
互いに互いの神となるのは、過去の影を互いに演じるだけに過ぎない
CARNIVALには救いはない
どんなに頑張っても、刻みついた幼少期の体験は忘れられないし、その影響が消える事もない
対して、まどかマギカには救いがあるかもしれない
ほむらは、まどかを神の座から引きずり降ろし、孤独と引き換えに幼児的な万能感を得た
しかし、ほむらは孤独であり、まどかの影を追い続ける空っぽな人間になってしまった
ただし、それでもほむらには救いがある
なぜなら、本質的には、ほむらがまどかに執着する理由なんてないからだ
正確にいえば、ほむらがどうしてあそこまでまどかに執着するかという理由に、説得力が欠けているという話だ
たかが中学生になってからの友達に、あそこまで執着するには理由が必要だ
作中で、ほむらは病弱でありずっと学校に行っていなかったような描写がある
では、友人が少ない人生を送ってきたから他者に執着し、依存するのか
ほむら人生は、神になってまで他者に執着するほどの過酷さがあったのか?
それとも、対人関係経験の少なさから来る幼児的な万能感や依存から抜け出せないことが、あそこまでの行動をさせると言うのだろうか
あるいは、自己のモデルとなる対人関係の少なさがアイデンティティや自己確立の空白を生み出し、それを埋めるためにほむらのような行動をとらせるのだろうか