体罰が認められるということは、教師や監督は業務として体罰を行うということである。業務として行うのであるから、効率が追求される。素手で殴るのは効率的でないから、竹刀などの道具を使う。全員を殴るのは効率が悪いから、見せしめにひとりだけ殴る。業務として行っていることであるから、暴力を振るったことを反省したり謝罪したりする必要性は認めない。ただし、問題になれば業務として謝罪行動をする。
学生・選手の側でも、体罰がシステムであることが分かっているから、体罰逃れをシステム化する。まず、逃げ出すのがベストであるが、システムとしての体罰は逃亡を許さない。体罰がシステムとして成立するためには逃亡を許さないなんらかの仕組みが組み込まれている必要がある。逃亡はできない、しかし、体罰が効率化のために見せしめ重視になっているなら、自分が見せしめの対象にならないようにすればいい。代わりの人間をつくればいいわけだ。これはシステム的な防御なので、そういう行動をしたからといって反省したり謝罪したりする必要はない。だたし、そのことが体罰を招くような事態になった場合には、土下座でもなんでもして体罰を軽減しようとする。
しつけとして体罰が必要であるから、こういう時には叩かなければならないというしつけ方の教育を受けた親が行う体罰は、上の例と同じようにシステム的な体罰である。この場合も、子を叩いたからと言って反省する必要はない。こうしたら叩くと決めていて、そうしたから叩いたのであって、同じ状況になれば何度もでも叩く。
親は職業ではないので、プロフェッショナルな親であることは要求されない。子供のしつけに暴力は使わないと決心していても、言葉が及ばずに子供が言うことを聞かない。だんだん怒鳴り声になって、それでも言うことを聞かないとつい手が出てしまうことがあるかも知れない。なんといっても親はプロではないので間違いがある。最善のことが最初からできるとは限らない。こういう時は、親は反省して心から謝ることができる。自分を殴った親が泣き出してしまったら、それは子供にとっては単に殴られるよりもショックなことである。親は、次の時は手を出さずにしつけを守らせようと考えて行動する。
親でも教師でも自己防衛は必要である。自分と家族や近所の人、教師の場合は他の生徒などを守る必要がある。つまり子供や生徒が暴力を振るっていて、それによって害を受ける場合に対抗手段を取ることがある。この場合は、同じ状況が起これば同じように行動するはずだ。予防出来なかったかという点について反省はするだろうが、その場の対応については反省しないであろう。