2012-09-25

デリケートな議論で日本人が必ず矛盾に陥る理由

簡単に言うとそれは言葉を用いるからに他ならない。「ある場合にはAでありほかの場合にはAでない」という何ら実質的矛盾の起きていない状況においても、「ある場合」と「ほかの場合」の違いを言語記述できない(単なる個人の日本語能力の問題とは限らない)と言語上は「AかつAではない」という矛盾した命題が導かれてしまう。他のケースに、1つの言葉が複数の意味を持ちうるため「AかつAではない」という矛盾が生じることもある。この複数の意味が人々に共有されているならば良いが

微妙ニュアンスの違いが共有されていなかったりすると、実際は矛盾していなくとも矛盾しか思えないという状況に陥るのである

「お前前と言ってること違うじゃねーか」「言ってることコロコロ変わってるぞ」というツッコミを入れる前にそこの点検は二重三重に行っておいたほうが実のためだ。澤口さんという人がいるんだけど、その人が寺田さんって頭いいよねって言ったのに、なぜか佐山さんが「T田さん頭よくないよーナイナイ」みたいな話をしてて、面白い話題で盛り上がるんだなと思いながらボクは横で拝聴していたのだが、そこにT田さんが忘れ物を取りに戻ってきて。それを見たS山さんが忘れものする人間が賢いわけないよと。ここで「賢い」の定義の違いがおわかりだと思う。S口さんとS山さんは両方イニシャルがSだが、賢いの定義がフタリの間で異なっている。だから片方は賢いと言い張りもう片方は賢くないと言い張る事態が起きる。

この種の茶番劇は人々の間で見解定義のことなるデリケートな議論において頻繁に起きる現象であるが、しかしそもそも言葉を用いている限りいとも簡単にはまり込んでしまう可能性に晒された罠であると言えよう。

そらく同一の言葉ならば同一のものを指しているはずだという予測あるいは気の緩みがあるのだろう。そこを逆手にとって定義をずらして相手を言い負かす輩もいる。定義ずらしは詭弁術や煽り常套手段である。「T田さん頭いいよね」に対して「忘れ物するヤシが頭いいとかないわーw」と煽るような形の煽りインターネットではしばしば散見される。まあ定義を明示せずに語るほうも場合よっちゃ幾分かの責任はあるが、定義の明示にはキリがないから少しでも明示を怠ったところにいとも簡単に煽りの入る余地が出来てしまうのはあまり公正とは言えまい。

  • イニシャルに直し忘れてるぞ。ま、別にいいけどさ。佐山澤口寺田。まあ珍しい苗字じゃないからいいけどさ。

  • おまえの話、どこが「日本人が必ず」なの? タイトルで「日本人が必ず」と銘打つからには他言語との対比するのかと思いきや、言葉の定義を揃えないと噛み合わないよねってだけの話...

  • これ日本人じゃなくて人間の話だよね? タイトルを思いっきり間違える馬鹿の時点で読む気うせるわw

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