感じたのが、女が、公共の福祉において権利が抑制されることもあり得る、女性においてももちろんのこと、ということを理解していないんじゃないかと思った。
女性が生理で仕事を休むのは誰のせいでもないが、企業のせいでもないのはもちろんである。しかし生理休暇の容認という形で、企業が本来持っている雇用契約上の私権を侵害されているわけで、それは公共の福祉の名において正当化される。男性は一般に強者とされるので、そういう「自分のせいではないが、社会利益を守るために自分の権利を少し侵害されるのを甘受する」ことに慣れているが、女性は慣れていないのではないか。女性に必要なのは女性にも社会を支える市民としての、公共の福祉上の義務があることを認識することだ。
中絶が問題になるのは、胎児当人の利害と女性の利害がぶつかり、それを調整しなければならないからである。中絶反対派はこの問題について「女が、女が」と女の側の事情しか言わないが、これは女性問題ではなく、公共の福祉の調整の問題なのである。胎児がこうむる不利益とはこの場合、生存権そのものなのだから、主体としての胎児と女性を同等に扱えば、女性の側に勝ち目はない。生存権に優先する権利はないからである。従って、中絶賛成派にとっては、胎児を徹底してモノとして扱わなければならず、ヒトそのものとしてはともかく、準人格的な存在として胎児を扱うことすら許されない。このことが、中絶賛成派が胎児を「匹」で呼ぶなど、人道的に狂った言動をとらなければならない理由である。彼らの、そうした人倫に根本からかけ離れた主張と態度こそが、彼らの主張が、少なくとも人権を基盤に置いた、人権尊重社会とは相いれないことを示している。
中絶賛成派は根本的に生存権にプライオリティを置かないため、個別のポジションや党派の利益によって生存権すら尊重しないことになり、思考も態度もナチズムそのものになるのである。