先週はじめてすずめの戸締りを見て、やはり新海誠の作風はファンタジー要素を入れない方がうまくいくんじゃないかと感じた。
秒速5センチメートルからファンで作品を追っているけど、新海誠作品の真骨頂は説明不足だけどそれを補完できる(または想像を膨らませることのできる)表現力だと思う。
それが最大限に出来ていたのが言の葉の庭だと思っていて、あの作品は雪野先生がどういう状況に立っていて、何故公園に来るようになったのかを描かず受け手に想像させることによって
主人公側から見た雪野先生の謎めいた美しさが際立って見えていると思う。
尚且つ終盤に主人公自ら雪野先生の過去を、表面的かつ客観的に人づての情報だけで自分の中で処理して行動している。
ここでポイントなのは映像作品だけを見ると、そもそも何故雪野先生がいじめのターゲットになったのかが
全くわからないということ。
このいじめに至る経緯は小説版を読めばわかるのだが、それをせずとも
主人公の行動原理を理解して感情移入が出来るのは国語のテストで言う
「この場面での~の考えを答えなさい」が分かりやすく、説明がなくとも大多数の人間が正解を導けられるということ。
君の名は。以降の作品は特にこの行動原理について説明なくとも分かるでしょ?が行き過ぎていて、置いてけぼりになる(若しくは疑問に思ったことが頭から離れずモヤモヤしながら見てしまう)
ということに繋がっていると感じる。
勿論映画は何も考えず直感的に楽しみ、その後に考察や小説を読んでみるなどで作品の輪郭を把握していく楽しみ方もあると思うので