2019-07-11

約ネバを見て、「みんなを救う」事への考えを改めた

海猿映画がすぐに思い浮かぶが、救命モノでよく見る「二者択一しか命を救えないときあなたはどっちを選ぶか」

という議題がある。大体は「どっちも救う!」なんだけど、そりゃそうしたいよ、でも出来ないから悩んでんでしょ……って毎回もやもやしてしまう。

ハンターハンター試験では「答えは沈黙」なんだけど、いや、悩んでるし……って毎回もやもやしてしまう。作中でもあったけれど、いつかは答えを出さなきゃいけない。答えを先送りにしてるだけじゃんと。

言いたい事はわかるんだ、いつも悩んで、何が価値かを考えろ、いつも悩んで悩み続けろって。でもやっぱり答えが欲しい。

みんなも同じ気持ちを持っていたんだろうと思う。だからこそ、進撃の巨人のように「何かを得るためには何かを犠牲にしなきゃいけない」という思想作品が増えていったのだと思う。

でもそれが行き過ぎて最近、「犠牲を出せば何かを得られる」みたいな思想になっている。仮想通貨流行った時も、「リスクをかけなきゃ利益を得られない」と言いながら、

から飛び降りてる人を何人も見た。そしてそれを自業自得と見つめる人も。二者択一という言葉を見た瞬間、「どっちかを切り捨てなきゃいけない」という強迫観念支配されてるように思えた。

約ネバの孤児院脱出編は、それらに対する一種の答えを出してるんと思うんだ。

二者択一しか命を救えないとき最後まで諦めない。最後最後までダメだったら見捨てる」

簡単なようだけど、海猿は「最後まで諦めない」しかできていなかったし、それ以降はそもそも初めから諦めていた。

約ネバの主人公は、最後まで諦めなかったし、無理だったら自分たちだけで行くという決断も(友達によってだけど)できていた。

それでもアッと驚く方法で皆で脱出し、読者に諦めない事の大切さを伝えて見せた。それだけじゃなく、行く先々で出会う「二者択一で即切り捨てる人」の心を動かし、

「皆を救う」という選択によって、自分たち自身も救われていく事になる。

ある意味「皆を救わなければ自分は居なかった」という呪いをかける事で、救われてきた。もちろんそれによって全滅する恐れもある。

現実世界で、僕たちは皆誰かに生かさている事を忘れて、まるで何かを切り捨てて生き残っていたような顔をしている。

そもそも「皆を救う」事を諦めなかったからこそ、薬が出来て、一応植民地支配を免れ、一億総玉砕まで行かなかったんじゃないかと。(ここら辺はたとえとして、実際はどうかは今は置いといて)

それを忘れて何を切り捨てるかばかり考えたら、たぶん自分も、世の中も何も無くなってしまう。

勿論、アメリカアフガンゲリラ戦で、アメリカ軍の「同胞は見捨てない」というルールゲリラ突っ込みさらなる被害を拡大してしまった事案もあるけれど、

そのルールによって救われた人も多分いるはずだし、同胞を見捨てた時点で多分その軍は、国の信念は終わってしまうと思うんだ。

甘っちょろい考えではあるけれど、そんな甘っちょろい考えが思い浮かぶたび、るろうに剣心言葉が思い浮かぶのだ。

「けれども拙者は そんな真実よりも 薫殿の言う甘っちょろい戯れ言の方が好きでござるよ」と。

俺薫じゃないけど。思い浮かぶのだ。

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