2018-01-31

何かが嫌いで怒れるオタクの女たちを見ていて、思うこと

主にtwitterに生息する腐女子の私見であります

嫌いなものは大抵の場合は誰にでもあり、それは趣味嗜好であったり、言葉の選び方だったり、食べ物だったり、ある人だったり、様々です。

オタクスラングでは「地雷」というのが一般的ですので、以降そのように記述します。

私は、そんな地雷を踏んでしまった人の対応違和感を覚えることがままあります

わかりやすい例だとカップリング作品キャラクター解釈の違いから生じる地雷を踏んでしまったとき、その地雷を生み出し設置した人物に怒りの矛先を向ける人たちです。

声が大きいためにひどく悲観的に、あるいは攻撃的になる人が残念ながら目立って見えてくるのです。

ある作品を書いた人がいます。それが受け入れられなかった人がいます

それが受け入れられなかったので、激しく批判します。

これ自体は、自由です。表現の自由がある以上、誰にもそれを止める権利はありません。

不愉快に感じたというのも表現であり、感想の1つです。

問題はこの先にあります

不愉快に思った自分への配慮を求める行為です。

謝罪要求したり、公に同好の士とともにその作品を、あるいはその表現者攻撃共感し合う行為は、表現の自由を逸脱した加虐性はら報復行為です。

当然、大半の人はそうではありません。不愉快になりながらも、自分なりのやり方で折り合いをつけていきます

人はどうしても主観の中で自分主体に生きていくもので、視界に気に入らないものが入ったとき自分という人間に悪意が向けられたと勘違いし、自分の意に沿わないもの攻撃的になることがあっても不思議ではありません。

しかし、何かを作った人と、それを不愉快に感じた人は同列であり、間違ってもお互いに何かを強制することはできないのです。

書いた人が、受けた批判を無かったことにできないように。

「この人は作品を書いた。私はその作品が嫌だった。」

それで終わりなのです。

こうした人はきっと、傷つけられることがひどく恐ろしいのではないかと思います

昨今の若者は怒られることに慣れていないと言われますが、それに近しいものを感じます

繊細なガラス細工のような心を守るため、攻撃的にならざるを得ないのだと。

しかし、自分の痛みにばかり敏感で、他人を傷つけることに鈍感なままでいては、怒れるあなた人間としての品位を貶めるのではないか、と思ってしまうのです。

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