2014-11-18

私にとってニコニコ動画空き地だった


例の淫夢を憎む人の記事を読んで思う。


『そもそもツイッターを筆頭にあらゆるソーシャルネットワークサービス

自分達にとって都合が良く心地の良いなれ合い環境を作り出すツール場所として存在しており、

故に淫夢のような特定集団形成や、その集団エゴステイックに闊歩するのは必然なんじゃない?』


...というのは一旦置いといて、

ニコニコ動画も随分まっとうな物になったんだなぁと。


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私にとってニコニコ動画という場所空き地だった。

ドラえもん漫画に出てくるような土管の積んである様な。

そこは非社会的な・隔絶されたグレーゾーンであり、

大人のルールから外れた場所であった。

子供としてはしゃげる場所大の大人子供になりたくて来る場所だ。

かつてのニコニコを知っている人は思い出せるだろう。

アニメ映画は丸上げされ、キーボードは飛び散り、狂った裸の馬が毒キノコ調理する光景を。

何でもアリの有象無象の輩が良く分からない情熱を持って馬鹿を競い合い、笑い合う。

咎められないからこそ自由にあらゆる物が交錯し、

そこではフリーダムな風を吹きあれていた。


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”だった”と書いたのは、もはや今のニコニコは別物だからだ。

今は一般化を目指してテレビの代わりになってしまったと私は感じている。

多くの人の目に触れた時に耐えうるクリーンイメージの追求。

社会的場所から社会的場所への整備が進んでいった、すなわち公園化だ。

公園とは遊ぶ場所ではあっても社会的空間であり、社会的ルール適用範囲に入る。

もはや好き勝手に出来ない場所なのである

社会的玩具としてあったビリーも、

公認された為に社会化し使い勝手の悪い遊具になった。

大人の目に届く好き勝手しにくい遊具になったのである

結果、ニコニコ安全公式が上げたアニメを見て猫を愛でるような安全場所になってしまった。

まらない遊具と禁止事項が羅列された看板しかない公園のようだ。


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淫夢的な物に人が集まるのはまだそこに非社会的自由さがあるからである

逆にもはや「かつて」のニコニコ的なる要素はそういった場所しかないからである公園の隅だ。

善の楽しさも悪の楽しさも、尊敬侮蔑面白さや発想として許容される非社会的空間

息苦しく無く見る側も作る側もそれが受容出来る空間

そんな敷居の低さが人の創造承認とのサイクルを作り出し熱を生み出す。

人が集まるのは当たり前だ。

面白い場所にこそ人は集まるのだから


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から私は淫夢系の動画にある本社爆破ネタが割と良く分かる。

あの何も無く人の目に届かなかった更地に戻したいのだ。

あの頃の皆で持ち寄り、産み出し、互いの発想を讃えて、笑い合うような。

  • 私にとってニコニコ動画は空き地だった http://anond.hatelabo.jp/20141118212618 上の文章を書いた後、 某氏が作り直す発言をしたので手向けを贈ります。 ---------------------- CGMは「他の誰か...

  • 私にとってニコニコ動画は空き地だった http://anond.hatelabo.jp/20141118212618 上の文章を書いた後、 某氏が作り直す発言をしたので手向けを贈ります。 ---------------------- CGMは「他の誰か...

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