2013-08-08

責任っていうのがよくわからない

たとえばみんな、7歳児が口汚く知らない大人を罵ってるところを見たとして、その責任を7歳の子に求めようとする人はまずいない。ちゃんと礼儀を教えてない周りの大人に責任を問うはずだ。その子に「それはいけないことだよ」と教えはしても、「この子は性根が歪んでいるんだ、どうしようもない子だ」と思う人は少ないんじゃないだろうか。

だけどこれが17歳となると、常識に外れたことをすれば、それは本人にも責任があるというような論調が増してくる。そしてこれが27歳にもなれば、自立した大人だから全部自己責任という論調が一大勢力になる。

これがわからない。大きくなるにつれて自我が芽生えていくとはいっても、子供の時強く洗脳されていたら誰かに解いてもらわないと大人になっても洗脳されたままじゃないか?どうして子供と大人の間のどこかに、明確な境界線が引けてしまうんだろうか? もちろん法律的に社会的に当人に責任が発生する、というのはわかる。だけど、みんなが「成人してるのに行動がおかしい人」を責めるときって、精神的な責任みたいなものを問うているように思える。「そんな歳にもなって、まっとうな人間じゃないなんて恥ずかしい。たとえどんな育てられ方をされたって、その歳にもなれば自分で考えてしていい事と悪いことが判断できるはずだ」という意味に聞こえる。だけど原理的に、当人の自由意志なんかじゃ変われないくらい、子供が大人になるまでおかしくなるように育てるということは可能なはずだ。狂った家庭で子供を支配して、家庭外のまともな人と触れ合う機会を制限しながら、おかしな大人に依存させて育てれば、大人になるまで常識を持たせないことだって可能だし、常識を持ったとしても、常識に従うよりも先に感情的な行動をとるような子供にすることは可能なはずだ。陰謀論者ばっかりの家庭とか、家族が全員情緒不安定で暴力的で子供に嘘を吹きこみ続けている家庭とか、家族メンバーの誰かをスケープゴートにして陰湿いじめることが罷り通っているような家庭だってある。

そういう環境で育ってどこか壊れた大人になった人に、精神的に責任を求めることは無茶じゃないのか。生まれついて頭がおかしかった人が犯罪おかしたとしても、環境に追い詰められて犯罪おかししまったとしても、当人の自由意志程度じゃどうにもならなかったかもしれないなら、それを被害者でもない周りが怒気を放って責めることは間違っていないか? 司法が裁くことも、被害者が心情的に救済されることも必要なことだけど、キチガイめという周りの罵詈雑言はまったく虚しいものではないか

責任能力がない認知症のお年寄りをちらりと見かけてもしょうがないと思えるのに、若者中年おかしい人にはそう思えずに、このキチガイめと罵らずにいられないのだとしたら、なにかへんじゃないか

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん