自分の中ではそれぞれの職場で自分が提供するべきものがはっきりと区別されている。
本来一人の人間である私自身をパーツごとにばらばらにすることはできない。
頭ではわかっているのだけれど、実感としては根を同じくするそれぞれの「私」が微妙に重なりあいながら生活しているような感じだ。
まあそれぐらいは誰にでもあることだろうと思う。
家族に見せる顔、恋人に見せる顔、職場の同僚に見せる顔、学校の友人に見せる顔。
誰もが無意識のうちに微妙に「自分」を使い分けながら生活しているんじゃないだろうか。
ただ、はっきりと「この場で私はこれを提供する」と自分の中で決めてしまっているせいか、時々とても困ってしまう。
ホステスの私を気に入ってくださったお客様から様々な形の好意をいただくことがある。
外での食事や遊びのお誘いだったり、わかりやすい指名、同伴。
店のお客様層がわりと年配(私と同世代のお子様がいらっしゃるような年代)なので、気分転換の場の「お気に入り」として可愛がっていただけることは嬉しい。自分の中のファーザーコンプレックス的な部分がホステスをするにはちょうど良いのだろうと思う。
好意には好意を、楽しい時間と気遣いを。それは自分の中で何も矛盾していないし、ホステスという「私」が提供するべきものでもある。
ただ、惚れた『だから』触れたい抱きたい、とおっしゃられると途端に困ってしまう。
それはホステスの「私」が提供するべきものではない。
対価を得て性的接触とファンタジーを提供するのは風俗嬢の「私」の仕事だ。
貴方は私をどうしたいのですか。
私に「惚れた」とおっしゃるその気持ちは幻想なのではないのですか。
少なくともそれは日々の生活を共にしたいと思う相手に抱く気持ちではないでしょう。
家庭にいらっしゃる奥様とは別に、気分転換の場で接する「女」という要素に惚れていらっしゃるのではないのですか。
その「女」は私ではなくてもかまわないのではないのですか。
仮に心底「惚れた」とおっしゃるのなら、触れず抱かずにそうっとしておいてはいただけませんか。
奥様と、私に歳の近いお子様のいらっしゃる貴方は、惚れたからとモノにしてその先、私をどうなさるおつもりなのですか。
貴方は私に、本当は何をお望みですか。
口説き文句を聞かされるたびにぐるぐるとそんな問いが頭を巡る。
それを最後に捨てられるだろうと思ってしまうからだし、寝てしまった後に相手のお客様にどう接したら良いのかまるで想像できないからでもある。
射精してしまえば夢は覚めるのだ。そんな男性を何人も見てきた。
風俗嬢の私に対しては、射精の後に「気持ちよかった」「ありがとう」という嬉しい言葉が返ってくることが多い。
ではホステスの私に対しては?射精を終えてしまった相手から、私はそれでもまだ何かを受け取ることができるのだろうか?
私を欲しがったお客様たちは、夢から覚めた後も、なお私に対して何かかしらの執着を残すだろうか?
ホステスとしての私も風俗嬢としての私も、結局はひとつの「商品」でしかない。
ただその「商品」はそれぞれ提供するものが違う。
だからお客様に対しては常に心の中で「私に何をお望みですか」と問いかけずにはいられない。
酒の席で予防線をはり、延長線上に性的接触のない好意を、ただし心底からの好意を示す。
誠実に接することで、自分もまた誠実に扱ってもらえるという根拠のない信念にすがりながら接客をする。
「私に何をお望みですか」と問いかけながらも、私が提供できるものは最初から決まっている。決めてしまっている。
そこを見失ってしまうと「私」の境界線はバラバラになってしまうだろう。私はそれがとても怖い。
偏見で原因を推測すると
「読んで理解できる言葉」と「自分で使える言葉」に大きな隔たりがある。
とかいう感じにすればとりあえずそれっぽくなると思う。
女が学問を身につけたら悔しいですか?
女が仕事をして金を稼いだら悔しいですか?
責任も権利もなく容姿と若さだけで評価される、セックスの道具としての女しか、
あなたがたにとっては必要ないのですか?
どういう種類のことをやりたいのかを明確にした方が助言を受けやすいんじゃないか。有料無料とかも。
とりあえず十分伝わる文章を書いているとは思う。少なくとも俺は分かった。
あえて言うなら、一文が長いかな。修飾句が過剰だと、通じない文章になりやすいよな。
あとは否定文だと通じにくいとか聞いたことがある。
でもこれは論理的うんぬんとは違うか。
論理的っていうのは、前提と結果がきちんと結びついていて、理論に飛躍がないことじゃないかな。
理論に飛躍って、前提A→結果A(=前提B)→結果Bというステップを踏むべき時に、前提A→結果Bってやっちゃうことなんだと思う。
ブログを始めてみようかと思う。
どこかオススメがあれば教えて欲しいです。
ここで聞いたらはてなを薦められるのかな?
とりあえずオススメな理由も一言添えてもらえると参考にしやすくて助かります。
自分じゃ、充分論理的なつもりでいるんだけども、ぜんぜん話がうまく通じない。
こりゃまずいと思ったから、話し方教室みたいなのも行ってみたんだけど、行ってる間はけっこううまく話が通じるんだけれど、終わってしばらくすると元の木阿弥。ちゃんと先生がダメ出しをしてくれる間は修正できるのだけれど、自分ではどう直せば通じるようになるのかわからない。
例えば、今書いてる文章だって、読む人にわかってもらえているのかどうかわからない。
ちゃんと通じる文章を書いている人の文を読むと(うまいなあ)(わかりやすいなあ)と思うのだけれど、どうしてそう思うのかわからない。
論理的な話し方の基礎が身につく方法とかないだろうか?
追記。20090409
なるほどと思いました。少しずつ身につけたいと思います。
今日本屋さんで偶然みつけた「O型 自分の説明書」を手に取ってみた。話題になって少し経つけど…
なるほどそうかもしれない、というところもあったし、えー?と思うところもあった。
次に、O型以外のそれぞれの血液型の説明書を、O型の説明書だと思って読んでみた。
そうすると、なるほどそうかもしれない、というところもあったし、えー?と思うところもあった。
海外ではあんまし流行ってないみたいだし、日本人が宗教みたいに信仰してるあたり、やっぱこういうのは洗脳に依るところがあるのかなーとも思ったけど、
でも日本人って随分昔から血液型占いを信じてるみたいだから、血液型占いの本を「デタラメだ!」と否定してるみなさんも、知らず知らずのうちに心のどこかで血液型占いの通りになってる部分があるかもしれませんよ。
何について「重要」? 加害者を処罰する量刑を判断する際に重要なんじゃないのか。加害者側の話であって被害者じゃないよね。われわれは被害者についての評価の話をしているんじゃないのか。
「現行のシステム」が何を指すのか知らないけれど刑法や刑事政策の知識をひけらかしたいならつきあってやるから説明してくれ。
条件法の形をとった誘導だな。それとも本当に字を読めていないのか。単に格好良く撤退するための口実がほしいのか。
逃げんなよ。私は君の意見を聞いてるんだ。
現行のシステムでは、殺人事件において殺意や計画性の有無は重要な問題とされているわけだが、増田がそんなのを気にするのはおかしいという主義の人ならもうこれ以上話をしても無駄だと思うから話はしない。
性犯罪の被害者の落ち度を責めることの弊害についてはこの辺でも読んでみて。
stock
極端な層を除けばみんなそれなり(に貯蓄あり)だと思うんだよね。
「感情」→「感情的」→「バカっぽい」と思っているため、理知的であるはずの自分がそんなバカみたいな怒りや悲しみを抱いていることをなかなか認めたくない、というところがある。
自分のことを論理的だと思っている人間ほど実は感情的だというのは、よくあることだと思っていた。
人間というのは、自分の中に生じる感情のうち、楽しさや喜びなどの感情は認識することには抵抗感が薄いが、怒りや悲しみなどの「負の感情」は認識するのに抵抗感が強い。
実は、冷静で論理的な人ほど、この「負の感情」を抱えた自分を認識している。そして、怒ったり悲しんだりしている自分を冷静に見つめる「もう一人の自分」を作り出している。この「もう一人の自分」が、負の感情を抱えた自分を客観的に見つめて、慰めたり励ましたり判断を下したりするわけだ。冷静さや論理というのは、この「もう一人の自分」が存在して初めて生まれてくるものであって、「もう一人の自分」を存在させるには、まず負の感情を抱えた格好悪い自分の存在を認識しなければならないわけですね。
冷静で論理的に見える人ほど「いや、自分だって感情的なところはあるよ」と言うのは、こういうふうに自分自身の感情的な部分を認識しているからだと思う。
自称論理派ほど感情的に見えるのは、この「もう一人の自分」が存在しないから。
「自分のことを冷静で論理的な人間だと思いたい、『負の感情』を抱えている自分なんて格好悪すぎて見たくない」という思いが強すぎるあまり、負の感情を抱えている自分が本当は存在するにもかかわらず、見なかったことにしてしまう。見なかったことにしてしまったら、それを冷静に見つめる「もう一人の自分」は生まれない。
結果、制御するもののいない『負の感情』が、自分でも知らず知らずのうちに暴れまわることになるのだが、本人にその自覚はない。正確に言えば、自覚したくない。あくまでも自分は冷静で論理的な人間なのだと思いたいから。
だからまあ、やたら論理的な人間になろうとすると墓穴を掘ることになりかねないので、「論理的=カッコイイ」という幻想にあまり囚われないほうがいいんじゃないかな。
真に論理的な人間なんてほんの僅かで、凡人が真似しようとすると、感情の正当化のために後付けのへ理屈をこねることになりかねない。そうなるくらいなら、素直に自分の感情を言ってしまったほうが良いという場合は、多々あると思うんだ。
これは、特に「理知的」であるとラベリングされている男性に多いそうなんですが、自分が相手に「彼(女)に○○して欲しいなぁ」などと感じているとき、時に人はそれを「彼(女)は○○すべきである」という風に思考していると、錯覚することがあります。例えば、「夕飯は手料理を作ってほしい」という感情を抱いたとき、特に男は、それを「妻は手料理を作るべきだ」という、論理・理屈に無意識のうちに変換してしまうのです。それは無意識のうちに行われますから、本人としては「理知的」に考えて言っているつもり(*3)なんだけど、相手にしてみればやっぱり理不尽な命令でしかない。
嫁にもらう男はいないかもしれないね。妻に迎える男はいるかもしれないけど。