はてなキーワード: 思索とは
大学も授業が始まって少しは落ち着いた頃だろうか
もう既に1限は無理だと切った人も居るだろうか。ドイツ人講師が日本語を喋ってくれなくてキツイ人も居るだろうか
良いバイトは見つかっただろうか
懐かしい
結婚したり出産したり子供の成長の節目節目とかがある人以外にとって
それ以外は、落ち着きすぎてるか落ち込みすぎてるかしか無い
落ち着きすぎている現在
何も楽しいことが無い。何もする気が起きない
あと、仕事辞めたい(というかもう働きたくない)
働くことに意義など見いだせない
眠いけど寝たくない
起きてても有意義な夜を過ごせないけど
だらだらしてて明け方近くになるだけ
学生時代だって夜じゅう起きてて何か有意義なことしてたわけじゃあないけど
素晴らしい時間ではあった
(でもいま現在誰かと夜じゅう過ごしてたら疲れるな。語り尽くす様な話も無いし。そんな話が出来る相手も身近に居ない。友人は遠くに居るし)
一人で引きこもって学校も行かずバイトも行かず…個人的な活動が思索が充実してるなら良いけれども…虚しいと思いながら貴重な学生時代を過ごすのは勿体ない
ほんと、一人でも楽しいことをしてください
エマとアレックスは、公園の中央にある一本の大きな木の下に設置された古びたベンチに座っていた。黄金色に染まる木々の葉が風に揺れる中、二人はまるで異なる世界の住人のように、それぞれ異なる思索に没頭していた。
エマはアレックスの横顔を盗み見ながら、彼への深い愛情に心を満たされていた。彼女の思考は、彼の笑顔、昨夜二人で共有した冗談、そして彼の手が偶然触れた瞬間の温もりにまつわる記憶に溢れていた。彼女は、どうやったらこの繊細な感情を言葉にして伝えることができるのか、その方法を模索しながら、彼が同じように感じてくれていることを願っていた。
一方でアレックスは、まったく異なる思考にふけっていた。彼の頭の中はいつか見たコメディ映画の一場面でいっぱいで、その滑稽なシーンを思い出すたびにくすりと笑いをこらえるのがやっとだった。映画の中でのある不器用なキャラクターがバナナの皮で滑って転ぶシーンは、彼にとってこの上なく楽しい逸話であり、その笑いが彼の心をくすぐっていた。
公園の夕景は美しく、風がエマの髪を優しく撫でる中、彼女はアレックスが自分の愛情を感じ取ってくれることをただひたすらに願っていた。しかし、アレックスはその場の心地よさと映画のコミカルな回想に心を奪われており、二人の間に流れる感情のアンバランスは、見えない壁のようにそっと存在していた。
この小さな公園の中で、二人の心は同じ時間を共有しながらも、まるで異なる軌道を描いていた。エマの愛情深い視線とアレックスの微笑みが、秋の柔らかな夕日の中で静かに交錯していた。
社会参画に至る通過儀礼としての自傷、特に思春期女性について、ボカロ歌詞、ラビットホールやら、人間なんか大嫌いやら、からふと想起する。
私が自分の容姿を卑下しトラウマトラウマと風聴するのは、ルッキズムとジェンダーバイアスに対するシニシズムである、と自己分析していたが、どちらかというとニヒリズム的かもしれないと最近思う。女性と男性の非対称性に嫌気が差し、弱みを見せる女性がモテて弱音を吐く男性がモテない古い世界を転換させたいという価値観への承認欲求、他者への不信感・不満が、この態度の根源ではありつつも、さして世は変わらないと感じながらも年老いても自傷的に耽るのは、自らの社会性への価値の毀損を厭わない虚無的な諦念所以である、と最近思った。
今の自分、ツイ垢沈黙たる自傷的な行動に対する幼稚さ、メカニズム、普遍的な欲求について類推し思索に耽る。自己価値の曖昧さや不安による試し行動は思春期的であり、これに私は虚無主義的に該当しないところである。寂しいからかまって、という凡な気持ちはもちろんあるが、最もはイベントに対する愛である。公式が今までありがとうも何もなく次のイベントの告知しかせず、蔑ろに感じた憤り、過去への執着だ。そこに対して付加的なイベントたる自傷を作ることで、イベントそのものへの関心と尊さをアピールしたい、というところか。ウェルテル効果が近しいか。そう考えると、面白みもないね。
ありがとうスプラトゥーン1。初めてのネトゲ。初めての交流、初めての彼女。ブラック企業退職から、全国の顔も見知らぬ友人を巡礼する旅。出会った人たちには様々な背景があり、半グレに手切れ金渡したことも。そんな人たちと甲子園に出て、思い出を作った。
最後に潜った。ナワバリには誰もきてくれなかった。ガチマでは有名プレーヤーとよくよくマッチした。うまく立ち回れずもやもやした。だんだん酔ってしまい、リタイア。昔はフェス丸一日プレイしたのにね。
……なんだこれ。婆やの死に目よりも涙出てきた。別れたくない。
別れたくない。
ショーペンハウアーは読書について以下のような主張をしています。
1. 読書は他人の思想を借りて考えることであり、自分で思考することの代替にはならない。あくまで自分の思考を助けるためのツールと捉えるべき。
2. 多読は必ずしも良いことではない。むしろ、厳選された良書を繰り返し熟読し、深く理解することが大切。
3. 読書は精神的な栄養摂取のようなもの。消化吸収できる分量を心がけるべき。食べ過ぎると消化不良になるように、読み過ぎても身につかない。
4. 古典を読むことを重視すべき。現代の書物より思想的に深みと普遍性がある。
5. 読書して得た知識を、自分の経験と照らし合わせて血肉化することが肝要。鵜呑みにせず、批判的に吟味する姿勢も必要。
6. 他人の意見に流されるのではなく、読書を通して自分の思想を形成していくことが目標。
要するに、ショーペンハウアーは読書を単なる知識の受容ではなく、自らの思索を深める能動的な営みと捉えており、精選した良書を熟読玩味することを勧めているのです。読書との付き合い方について示唆に富む主張と言えるでしょう。
実際は、報酬系動かないって認知とか自我とかそういう精神的な作用ほぼ全て阻害されるようなもんだぞ
反省、分析、思索、後悔、計画、自責、記憶、こういう心的機能が起こらなくなる
当然、納得も満足も経験されなくなる(それを体験する心が希薄になるから)
そうなると人生スパンで達成する目標とかに基づいて行動出来なくなるし
損得勘定も出来なくなる 世界ランクとかマウンティングやレスバに興味がなくなる
向上心・自尊心・射幸心・グリッド・レジリエンスなどのいわゆる非認知能力も全てオミット
社会性も無くなり他人と形成可能な関係がほぼ0になるか幼稚で非建設的で相互被害的でそういう悪い関係性しか実現できなくなる
自分を許したり許さなかったり、他人の落ち度を探したり自分の落ち度を探したり、こういう批判的な思考も起こらなくなる
2500年ほど前に生まれた宗教。「生きることは苦しみであり、その苦しみから逃れるにはどうすればよいか」という問題に、開祖は「思索を深めて悟りを開くことで苦しみから解脱する」ことを説いた。僧侶となり厳しい戒律を守ることで悟りを開くことができるとする派閥と、過去に悟りを開いた人たちが神のような存在となって僧侶でない人でも助けてくれるとする派閥がある。
2000年ほど前に生まれた宗教。神と開祖は同一の存在であるとする。世界が終わるときに神による裁判が行われるが、開祖が全ての人の罪を背負って死んだので、開祖の言うことを信じて生きれば救われる、と説く。当初から国家によって保護されたので、キリスト教の指導者と世俗の君主との棲み分けがなされ、そのため倫理・道徳としての側面が強くなった。
1500年ほど前に生まれた宗教。神と開祖は異なる存在であり、人ならざる神の気持ちを推し量ることはできないので、ただひたすら神が命じたとおりに行動するしかない、と説く。また、開祖自身が国を打ち立てた指導者だったことから、イスラム教は国家・政治と一体化しており、その教義がそのまま法律として運用されている。
厨二というかなんかカッコいい(小並感)が必要なら、エリック・ホッファー、かっくいい(小並感)
まったく学校へは行かず、複数の言語(ドイツ語・ラテン語ほか)・化学、物理学、鉱物学、数学、地理学・植物学など様々な学問を独学(図書館)で修めるだけの才能を持ちながら、
炭鉱夫・日雇い労働者・季節労働者として放浪して何十年と働いて、
40歳になってようやく留まるようになっても、沖仲仕(おきなかし。船と陸の荷物の積み込みとかする港湾労働者)やって、
肉体労働とは無縁で、ただ頭だけで何事も理解した気になる知識人に対して、ホッファーは一貫して辛辣な批判を投げかけてた
これが本物ハードボイルドよね。アキ・カウリスマキ監督の作品も割とこれ感じる、カッケー
世捨て人になることなく、他者との関わりのなかに生きながら、他者に干渉しようとはしないこと。誰かを貶めるのでも、誰かに認めてもらうのでもなく、自らの価値を自分自身によって証明すること。それこそが、ホッファーの考えた「真に生きる」ことであり、「すべてが可能であると感じる」ための唯一の生き方だったのかもしれない。
教えることのいかがわしさ:エリック・ホッファー、田中淳訳『波止場日記――労働と思索』(みすず書房、2014) - うろたどな
様々な学問をぽんぽこ修める高IQは別にあってもなくても別にどうでもいいけど、肉体労働とDIYをこなせる器用さと筋力と体格、これはあったらな・・・とは思うよ
まぁ、極端に不器用でゴブリンでクソオタもやしでも、自分に出来ることやればいいだけなんじゃがの
自分に出来もしないことやって、楽しむ時間なくなったら、何の意味も無いもの
エリック・ホッファーみてーに生きたいよな。選べるなら選びたい生き方のひとつよ
まったく学校へは行かず、複数の言語(ドイツ語・ラテン語ほか)・化学、物理学、鉱物学、数学、地理学・植物学など様々な学問を独学(図書館)で修めるだけの才能を持ちながら、
炭鉱夫・日雇い労働者・季節労働者として放浪して何十年と働いて、
40歳になってようやく留まるようになっても、沖仲仕(おきなかし。船と陸の荷物の積み込みとかする港湾労働者)やって、
肉体労働とは無縁で、ただ頭だけで何事も理解した気になる知識人に対して、ホッファーは一貫して辛辣な批判を投げかけてた
これが本物ハードボイルドよね。アキ・カウリスマキ監督の作品も割とこれ感じる、カッケー
世捨て人になることなく、他者との関わりのなかに生きながら、他者に干渉しようとはしないこと。誰かを貶めるのでも、誰かに認めてもらうのでもなく、自らの価値を自分自身によって証明すること。それこそが、ホッファーの考えた「真に生きる」ことであり、「すべてが可能であると感じる」ための唯一の生き方だったのかもしれない。
教えることのいかがわしさ:エリック・ホッファー、田中淳訳『波止場日記――労働と思索』(みすず書房、2014) - うろたどな
様々な学問をぽんぽこ修める高IQは別にあってもなくても別にどうでもいいけど、肉体労働とDIYをこなせる器用さと筋力と体格、これはあったらな・・・とは思うよ
まぁ、極端に不器用でゴブリンでクソオタもやしでも、自分に出来ることやればいいだけなんじゃがの
自分に出来もしないことやって、楽しむ時間なくなったら、何の意味も無いもの
この文章は、実は「Serial Experiments Lain」を褒めている内容を述べています。
主人公である伶音の特徴や行動が、オタク文化やインターネットの世界に対するリアルな描写として詳細に表現されていることが称賛されています。
インターネットの歴史や都市伝説的な要素を組み込んだストーリーテリングが、独特で興味深いとされています。
作品の世界観や音楽、OPやEDの楽曲が、時代感や作品のテーマ性を的確に表現しているとされています。
SF要素や鬱アニメとしての側面に加えて、物語が展開する過程や伶音の成長、インターネットへの依存からの脱却などが描かれ、深い思索を呼び起こすとされています。
最後に、作品が特定の層や興味を持つ人々に向けて制作されていることが指摘されていますが、それゆえに普遍的なオススメとしてではなく、一部の視聴者には特に魅力的な作品であると述べられています。
総じて、この文章は「Serial Experiments Lain」が特定の視聴者層にとっては非常に魅力的であり、その深遠な世界観やキャラクターの描写、音楽などが称賛されていることを表しています。
仕事に集中できなくて、ぼんやりとネットサーフィンをしていました。
そんなときに見つけたのが、大日本○○が袁世凱に向けて出した○○21箇条で日本が孤立を深めることになり、さいごは新型○○をおとされたっていう動画でした。悲しくもなりました。日本がどんなに苦労しても、敗○○になってしまったのですから。
この動画を見て、私は思索にふけってしまいました。なにをやってるんだか・・と自分に問いかけました。私は今、自分の仕事にやりがいを感じているのでしょうか。私は自分の人生に満足しているのでしょうか。
私はまだ答えを見つけられていません。でも、書いているうちに、少し気持ちが楽になりました。私はこれからも、自分の気持ちに正直に生きていきたいと思います。そして、自分の幸せを見つけたいと思うのですが、どう思いますか?。それでは、また。👋
追伸。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
前に似たような思索をしていたことがある。業務のアドバイザー的な人に「気を遣わないでイイっすよ」と言われて困った。じゃあ家族同然に接すればいいのか?それでお互いがしあわせになるのか?ということについて考えていた。
気を遣わないってのは、つまりおそらく「楽にしろ」ってことなんだな。他者に対するエネルギーを割かなくてもいい、何か背負ってる荷物があんなら降ろしていいよ、ということ。
でもそれはそれとして、自分にとってのエネルギーが別個に存在していると思うんだ。自分にとってのエネルギーは、言い換えれば、私はこういう人間になりたいというエゴだ。
言葉遣いにしろ所作にしろ笑い方にしろマナーにしろ生き方にしろ、自分自身が理想的にどのような人間でありたいと望むこと、またそのためのこだわりを大小持つということは、別に他者がいるいないに関わらずあると思うんだよ。優しい人間になりたい、クールな人間になりたい、上手いことを言える人間になりたい、大抵の人は色々なエゴを抱えて生きているんだ。
でも、まあ、現実的に考えて他者が目の前にいる状況下ではそういうエゴを維持出来るかどうかはきわめて不確実になる。詰まるところ、その他者との関係性によってもあるべきエゴのかたちは変わるもんだと思う。また、ひとくちに他者と言っても、家族、友達、ご近所の人、会社の同期、上司、全く初対面の人、いろいろあるわけなんだよね。
そういうわけで、じゃあ「気を遣わないでいいっすよー」と言われた時は、どうするのが正解なんだろう?
私が思うに、それは自分が抱えているエゴを相手に明らかにすることと、相手とどのレベルの関係性を保ちたいかについて互いに認識を合わせること、この2つなんじゃないかと思う。
家族に対して比較的容易に楽になれるのは、この2番目である認識合わせをしなくて済むからなんだと思う。もとより家族っていう極めて当たり前な関係にあるとわかっているから、その点について探る必要が基本的にはないんだ。でもそれ以外の他人はそうじゃないから、「気を遣う・遣わない」以外の表現で、互いの目指す距離を確かめる必要がある。