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はてなキーワード: 哲学書とは

2024-06-02

井の中の蛙ちゃんって眺めていて楽しいですよね。 大学という名のサラダボウルは蛙ちゃんの宝庫です。

入学当初「俺、英語ちょっと得意だから」と誇らしげに言っていた男の子がいました。彼の英語力は実際のところ、私の高校の平均以下。私の英語を聴いて、彼は「もしかして帰国子女? 」と驚いてしまいました。本物の帰国子女を見 たことがないのですね。世間知らずでかわいいな。

読書家だという子の愛読書は、私が中学卒業 したレベルの本。大学図書館に一緒に行った際 、彼女は私が借りた哲学書に目を丸くして「そ んな難しそうなのを読もうとしなくても…」と 呟いたのでした。え、読書ってこういうのじゃないの?

よく相談に乗ってあげる子は「これでも地元で は神童って言われてた」そうです。単位落とし で留年すれすれの人が神童って。よほどレベル が低い地元だったのかな。もちろん本人の前では言いませんよ、泣かせちゃうから

都会に生まれ育ち優券なお兄ちゃんや従兄弟がいる私は、上には上がいることを知っています

おかげで自分能力を買い被ったことはあり ません。謙虚さや向上心を育む環境に生まれてよかった。

2024-05-24

anond:20240524141941

そりゃ哲学書が売れないと哲学者が食っていけないからな。

そういうだろう。

2024-05-14

英語採用ページやその後のメール、持っていると好ましい資格や実際仕事で何をするかは読めるし応募して普通に外資の一時雇用に受かったんだけど、TOEIC文章意味分からん

つーか日本語訳で読んでも意味分からんのが結構ある

日本語訳10回くらい読み返してようやく意味ちょっとだけ分かる

でもそこそこの文系大学出てるから日本語読解力がないというわけでもない

TOEICと相性が悪くて辛い

役所文章無駄に難しい哲学書読んでる時くらい苦痛

2024-05-04

anond:20240504152341

お疲れ様です

以下追加しときます

2024-04-23

フェルミ研究所とアバタローの動画は相当見たので、本を読んでる人より賢くなった

全部ではないけど、フェルミとアバタローは相当見た。

自分で読んだ本もいっぱいあるけど、動画だけでも相当量のインプットになってるはず。

動画馬鹿にする人おるけど、当たりつけるのに動画は使えるからね?

それより本だから素晴らしいって思ってる人こそヤバいからね??

あの程度の読解力の人が哲学書よんでドヤってるの、

「自慢するために読んでたんだろうなぁ〜」

SNS人生の中心にいる人なんだろうな」

って今思うと呆れてる。

私が読書家をあまり信用してないのはそこ。

読書で終わる人がけっこういる。実践を前提に読まないか美辞麗句を称賛しがちなところ

いや、むしろ「私哲学書読んだんだ」的なこと言った直後にヒステリックにキレ散らかしてるやべぇやつになってたので…

「この人の読んだ哲学書絶対読まんとこ」的になってる。

2024-04-20

anond:20240420125432

哲学書の2、3冊も読んだなら、レスバなんて時間無駄ってことくらいわかるだろ

2024-04-03

生きていけない

 アスペルガーADHDを持っている。知的障害はない。今は18歳。通信制高校卒業したが、大学進学する準備として、まず体調を整えるために一年余裕を持ち、フリーターをしながら勉強をすることになった。

 思い出すと私が私で産まれたから、クソみたいな人生だった。お父さんにもお母さんにも、下の兄弟にも迷惑をかけた。

 中学受験をして進んだ先の学校いじめに遭い、鬱病二次障害として発症した。おかげで特性と鬱が相まって何年も部屋を片付けられていなかった。

 私は女だ。外に出る時は人並みに化粧をし、身なりを整え、おしゃれをして、ぱっと見では変に見られないようになる。これは自他共に認めている。

 だが、家では違う。家事ができない。その癖頭だけがフル回転して、何かしらの哲学書を読み漁り、かと言って科目学業からきし、唯一現代文は得意、数学は異言語のように見えて何も分からない。

 でもアルバイト半年前に始めた。もっと化粧を綺麗にした。人と関わることに努めた。少し変わったと思った。だから片付けてみようと思った。

 少し片付けるだけで、バイトの比にならないぐらい疲れた。動けなくなった。親にろくに返事もできなくなった。イラついた。喧嘩になった。親を散々に罵倒した。挙げ句の果てに、「障害がなければ、私が産まれてこなければ、」と、二人に向かって叫んだ。それが今日の、1時間前の出来事だ。

 もう駄目だと思う。生きていくのに向いていない。そして、こんな駄目人間が長女で、ごめん、お父さん、お母さん。バイトも、店長が優しいから続けられているのだ。月に3回も身体が硬直して動けなくなり、なんとかLINEを入れて、休んだ。普通なら難色が示されるはずだ。皆優しいのだ。お父さんもお母さんも、他の家族も、バイト先の人々も、友人も。

 恋人もいるが、今日も取り繕っていつも通りのメッセージを送った。家にはあげたことがない。外で、見てくれのハリボテの、元気な私を見て付き合っている。これが知れたら振られる。時間を奪わせるくらいなら、別れようかとも思う。でもクソ野郎から、できない。

 産まれてごめんなさい。片付けもろくにできないし、テレビで見るような天才発達障害でもなくて、ただ汚い部屋で泣いている、こんな私で、ごめんなさい。

 死ぬ勇気もなくてごめんね。

2024-03-11

anond:20240311175503

真似て学ぶぐらい憧れを感じる

述べてません。アナタの頭の中の声です。治療法が確立されてます

洗練というリファクタリング極まると最終的に哲学書のような文章になる

そういう見方もあるとは思う。

しかし、リファクタリングかな?コンテキストの深い専門用語を行き当たりばったりで作って無闇に初学者への戸口を狭くする怠惰だと思ったけど。

anond:20240311172030

から哲学の中の衒学的な部分をバカにしたくてロクに推敲もせずにそれっぽい文にしたんだってば。

俺達は意思疎通ができないのか?

一応確認すると、その意味不明文字列って「お前の文は哲学書のようにすごい内容じゃないぞ」って意味を示しているよな?マジで言ってる???

反出生主義者に聞いてみたい!

はじめに

自身は反出生主義がそこまでヤバい思想だと思ってない。苦しみを絶対悪としてそれを避けようとするなら、最初からまれなきゃいいじゃんって理屈になるのは筋が通ってる。俺自身も、最大の苦痛である死がいずれ必ず訪れると知った七歳のとき絶望感を覚えている。あの時はどうして俺は生まれしまったんだと叫びたかった。

なぜ生きている/生きてしまっている/生かされてるのかって驚きこそが、哲学の始まりだ。

それに野良犬なんかの管理で「不幸な犬を増やさないために」って去勢するのと理屈とどう違う? あるい出生前診断や重い障害を持つ人々を重荷とみなす世間まなざしなど、生命が完全に平等尊いという考えに疑いをさしはさむ発想は結構身近だ。実は言語化されてないだけで、今まで多かれ少なかれ反出生主義的な発想はあったはずだし、自分は出生主義者だと思ってても、反出生主義的な考えをまったくしたことがないってことはないだろう。ちょっとくらい「なんで生まれたんだろ」「生まれさえしなければ」と考えたことくらいあるんじゃない?

ときどき反出生主主義者がやべーやつ扱いされるのは、興味ない人を無理やり説得しようとするやつがいからなんじゃないかって推測してる。

で、当の俺自身は生まれる事の善悪判断する能力を、そもそも人間は持っていないと思っているんだけど、反出生主義者に聞いてみたいことは結構ある。だからまとめてみた。

日経新聞の夕刊で森岡正博が紹介してるホットトピックだし。

質問



雑談



最後

2024-03-01

anond:20240301104742

かにラノベなら1時間からず読めるのもあるしな…

仕事にも依るけど新聞やら業界誌やら読む場合もあるし

そろそろ冊数ではなく、文字数×難易度表現する方法があってもいい

S(哲学書、専門書)係数5.0

A(新聞、おかたい本)3.0

B(新書2.0

C(ライトノベル)1.0

D(漫画絵本)0.1

スマートグラスにこんな機能がついたらいいな

2024-02-22

表紙だけエロ漫画カバーで中身は哲学書

玄関に後で捨てようかと放置していたら

動かした覚えがないのにたまに叩きつけられた

様に位置が変わってる

これはもしかして…誰か騙されたか

2024-02-16

anond:20240216161225

追伸。

イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2024-01-24

anond:20240124155822

しか最近、人に勧められてある哲学書を読んだ。すると書いてあったことは自分がまさに社会に出て三十年の間に培ってきた己の哲学とほぼ同様のことが書いてあった。

浅田彰でも読んだのか。典型的浅田病だな。

絶望した

俺は普段本なんか読まない。

本に書かれていることはあくまフィクションで、現実じゃない。

から読んでも無駄だと思って生きてきた。それでも自分の中には自分哲学があり、それを指針として生きてきたし、この考え方は自分特有のものだと思って生きてきた。

しか最近、人に勧められてある哲学書を読んだ。すると書いてあったことは自分がまさに社会に出て三十年の間に培ってきた己の哲学とほぼ同様のことが書いてあった。

それが非常にショックだった。この考えは、自分特有のもので、仕事や周りの人間関係、それらによって培われた自分だけの、自分自身の考え方だと信じていたからだ。

まさにアイデンティティだった。それがこの本の中には、同じようなことが書いてあった。

共感されて嬉しい、というよりも絶望感の方が強かった。

俺のこの三十年は何だったのか。この本をもっと若いうちに読んでおけば、俺はもっと早くにこの境地に辿り着いていたのかもしれない。

しかった。自分自身を否定されたような気がした。

でも今更自分の考え方を変える気にもなれない。

俺はどうすればいいのだろうか?

2023-12-12

弱しゃあっ!男性の特徴

2023-12-02

anond:20231202211740

時代わかる、古典とされる哲学書を読んでいたとき、肝要なところ以外で端々に現代感覚としては受け入れられない記述邪魔をしてきて断念したことがある。

そこを割り切ってエッセンスを掴んでくるのも読書術なんだろうけどなあ。

2023-10-16

anond:20231016121027

哲学書を読んで教養教養ってキャッキャウフフしてる連中も、教養として基礎理工学をやれば多少は周りの理解が得られるかもな

横でした

教養って言葉が嫌いすぎる。

わけわからん哲学書読むより、10時半から始まる2限から6時まである5限まで基礎理工学実験演習して身につける物の方が余程「教養」だよ

2023-08-31

anond:20230831133812

シェイクスピア演劇知らんのと布袋寅泰ギターの柄知らんので優劣とかあるんかいなって思った。

吉本芸人漫才が好きなのとオーケストラ好きなのにどっちが上とかあるの?

哲学書好きなのと刃牙好きなので優劣あるの?

ないよ。

ないけど、布袋寅泰に詳しい奴らよりシェイクスピアに詳しい奴らの方が金持ってる場合が多いというだけの話。

金は社会的パワーだからね。

知識に優劣ってあるんかね?

最近東京出身慶応友達と飲み行くことあって、

そこでその友達子供の頃から地方に住んだら美術館とかミュージカルに行けないか文化的素養が身につかない」「ゲームかに詳しくなっても何も役に立たないやん」

かいって若干田舎民やら見下してる雰囲気なこと言ってて、

んでその帰りに上下共に布袋ギターファッショングラサンかけためっちゃ目立つ感じの兄ちゃんが通りがかって

「うわさっきめっちゃ布袋の兄ちゃんおったな」って言ったらなんかピンと来てなくて、どうやら布袋寅泰の楽曲やら布袋寅泰のギターの柄がいろんなところでコスられてる文脈とかそういうの全然知らんかったみたいで

シェイクスピア演劇知らんのと布袋寅泰のギターの柄知らんので優劣とかあるんかいなって思った。

吉本芸人漫才が好きなのとオーケストラ好きなのにどっちが上とかあるの?

哲学書好きなのと刃牙好きなので優劣あるの?

ただの趣味の違いじゃん

2023-07-05

私の近所にいた弱者男性

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