はてなキーワード: B型とは
俺B型、嫁B型、子O型。これだけなら、表現型的には、ありえるわけだけど。
俺の父AB型、母B型、母方の祖父母は両方AB型、嫁の両親はAB型とO型なんで、遺伝子型的にはありえない。
家計図とか四分割表にすると、分かりやすいんだけど。タグ分からないんだ。ごめん。
遺伝子型だと、俺の父AB型と母BB型なんで、俺はBB型。嫁もAB型とOO型との組み合わせなんで、こっちもBO型なのは確定。
だから、子供は遺伝子型BO型かBB型で、表現型はB型しかありえないんだ。
嫁とはいっしょに、献血に行ったこともあるから、お互いの表現型は知っているけれど、うちの爺さん婆さんの血液型まではさすがに話題にした記憶がない。嫁の浮気がないとすれば、あとはどっちかの親の血液型認識が間違っているか、そっちのほうで浮気があったとかしかの可能性しかないんだよなあ。
はっきりさせたところで、あちこち掘り出さなくてもいい過去がでてきてそうで、そっちのほうで頭の中が混乱してる。
もう俺だけの秘密にしておけばいいかって気がしてきてる。
確かに、世間で言う抽象的一般的な「ザ・童貞」像は蔑まれているかもしれないけど、ある特定の具体的な人間が童貞の状態にあるからといってバカにされたり差別を受けることはないように思います。
例えば、私増田自身が20代後半の童貞なのですが、男友達に自分が童貞であると話しても「そうは見えない」とか「興味ないの?」と驚かれるだけで人格的にマイナス評価された印象はまったくありません。女性達と恋愛話になったとき、遠回しに童貞をにおわす(!)発言をしても、「増田君ならいい人が見つかるよ」「誰か一人を大切にするタイプだね」などとおおむね好意的に解釈してくれて、ひかれた覚えは無いです(もちろん、裏でどう言われてるかはわかりませんが…)。
ネットで見かける童貞関連テキストについても、本人が童貞であることを勝手に負い目にして自嘲気味に語っているだけで、周囲からバカにされてどうのこうのってのは無いように感じました。
もし「童貞!」と指弾されるのならば、理由は「童貞だから」ではなく「(発言者にとって)嘲笑したい奴だから」なのではないかと。嫌なイメージの典型例を描き、それを対象の相手にかぶせて嘲るという手口は他でもあるものです。例えば「これだからB型は…」とかね。だから、ふさぎこんで童貞を恥じたりする必要は無いはず、と思うのですが…。
おおざっぱなところなんて誰でもある。神経質だったり頑固だったり。
血液型信者は、血液型フィルターをかけて、自分がその血液型の特徴だと思うところをクローズアップしてるだけ。
もしも私がO型だったら、私の机の整理の仕方を見て「ああO型らしいおおざっぱさだねえ」というだろう。
もしも私がA型だったら、決して時間に遅れない真面目さを見て「A型らしいね」というだろう。
もしも私がB型だったら、私の仕切りっぷりを見て「さすがマイペースのB型」というだろう。
もしも私がAB型だったら、私の職種を見て「確かにAB型に向いている職だよね」というだろう。
そんなものだ。
感情的な潰しあいにならないための予防策としてはいい考えだと思うのですが、それをすると最初に提案した論がそのまま通ってしまうパターンが発生するような気がします。
例えば例に挙がっていた「B型の人間は自己中」と言う問題(そう思っている訳じゃないですよ念のため)があったとします。
B型の人は精神的利害関係者に当てはまるので論から抜けましょう、と。
その結果B型以外の人が残るわけですから、比較的B型の人の事をきつくいいやすい土壌になるわけです。
後は「私もそう思う」「僕も僕も」みたいな意見が相次いで、晴れて「B型の人間は自己中」と認められてしまいはしないでしょうか?
こんな例を引っ張ってくるのも何なのですが、魔女裁判はさばかれる側が裁判に加わる事がほぼ不可能な状態でした。(味方をしたら、次にさばかれるのは自分なので、議論から抜ける)
まさにそんな感じになってしまうのではと言う恐怖感がありますね。
「理想が高い」とか見て「自分の理想の女性像は?」と考えると、結婚なら色々と思いつくが、付き合うだけならあんまり思いつかない自分がいたり。
好みのタイプっていうのは一応あるけど、あんまり気にしたことは無かった。
ショートカットが好きって言いながら、前に付き合った彼女はロングだったし。
でも、どちらも好きになった理由はそれなりに話したり近づいたりしたからだと思う。
小学生のときの初恋も席が連続して隣になったからという、ありきたりなコトだったし。
たぶん、その時点から脳みそはあんまり成長してないんだろうなぁ。
結婚するなら「おいしい味噌汁を作ってくれる人!」と断言できるんだが。(まあ、でもこれも色々と裏がこめられていて、理想が高い部類に入る気がする。)
肝炎?
http://anond.hatelabo.jp/20070114163130
http://anond.hatelabo.jp/20070114163130
http://anond.hatelabo.jp/20070114154442
http://anond.hatelabo.jp/20070114082623
http://anond.hatelabo.jp/20070114092214
http://anond.hatelabo.jp/20070114151458
http://anond.hatelabo.jp/20070114082623
比較的B型の上司とA型の部下ではあまりうまくいかないってことでFA?
もしくは「許す気持ち」がないとだめぽ?
久々に興味ある話題なので転載してまとめるよ。
巷で蔓延するニセ科学批判。多くの人間の共感を呼んでいるが、実は問題はそう簡単なことではない。
確かに、追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ!
と、定義できればこれほど簡単なことはない。
実際、そのような定義が正しいとは思う。
しかし、科学者自身がニセ科学を批判するには人類が築き上げてきた科学は脆弱すぎる。
科学がニセ科学を糾弾できない真の理由はを知るには『進化論』問題を見れば解るだろう。
なぜ進化論がニセ科学かは、具体的に事例を出してゆ行けば自ずと結論がでるのだが、これは実に根が深い問題である。
人と猿は近い種と考えられているが子供を作ることは出来ない。そこには明確な断絶があり、どのような手段で『進化』がこの壁を乗り越えることが出来たかは今だ明確な説明できない
猪から豚が、狼から多種多様な犬が生まれたからといって、進化はあると言うのは紛れも無いニセ科学的な論法である。事、人間に関してはミッシングリンクなどと言う名称までつけて事の解決を図ろうとしているが、これは現在は実証しようがないと認めているに等しい行為である。
進化論をやっかいなニセ科学にしている理由に多種多様な化石の存在がある。
そして、始祖鳥を筆頭に恐竜から鳥が、魚から両生類が、両生類から爬虫類が…と言うように進化したと言われている。しかし、これを証明できるほど遺伝子工学は進歩していないし、結論は別のものであると考えたほうが遥かに健全であろう。今の段階でこの希望的観測を学校の授業に取り入れるのは間違いである。
クローン猫の事例を出せば納得してもらえるだろうか。
恐らく多くの人間は遺伝子が同一なクローンはオリジナルに極めて近い性質であると考えたであろう。
私もそう予測した。
しかし、実際は違った。模様から性格に至るまでそれは明確に別の固体のように振る舞い、一卵性双生児のように極めて近い存在とはならなかった。しかし、同じ遺伝子であることに間違いは無い。細胞の寿命に関する機能が原因ではないかとも言われているが、多くの遺伝学者、識者が予想もしなかった結論がでた。
つまり、当時のクローン技術で予測された結果は正しくはなかったと言うことだ。
科学とは証左できない存在を排除するプロセスを経て初めて機能する具体的事例をここに出した。
しかし進化論では、状況証拠から結論を予測するしか出来ない。これは間違いを必然的に孕む手法であり、何より間違いを正す手段が無い。
更に言えば、進化論を形作る多数の証拠には扱いに困る物も多い。
例えば、中国政府が北京原人は実在すると主張し続ければ北京原人は存在することになる。(証拠が既に紛失してしまったので検証しようがない)
◆進化論の背景
現在、進化論のような理論が提唱されても学会で否定されるであろう。
このような証左を求めることが出来ない存在は現在の科学では入り込む余地がない。
しかし、これは当時の時代背景を考慮に入れなければ説明できない問題である。
実は科学とはアインシュタインの相対性理論をターニングポイントにその性質がガラリと変わっている。
それまでは、科学には無限の可能性があり、明らかに出来ない事象は存在しないと信じられてきた。
しかし、このドイツ出身の物理学者が提唱した相対性理論によって、そのことが明確に否定されてしまったのだ。ビックバンと呼ばれる宇宙開闢以前の時間が存在しない『モノ』の考証を物理学は放棄した。
これは、当時の科学者には相当な衝撃であり、決して受け入れられないと考えた学者も多かった。
しかし、誰一人、論理的にそれに対抗できる概念を作り出すことが出来なかった。
(その残滓がタキオンやエーテルと言えば理解できるだろうか?)
さて、話は戻るが進化論はアインシュタインの相対性理論発表前にダーウィンが提唱した論文が発端になっている。科学が万能であると信じられた時代の遺物。まだ、科学が錬金術と近い間柄だった時代に生まれた存在である。
はっきり言ってしまえば、進化論とはアインシュタインが科学の万能性を否定する以前の学会だからこそ認められた存在であり、これは科学というより歴史学といったほうが良い代物である。
◆本文を書こうと思った背景
ちょうど大阪大学の菊池誠教授の『水からの伝言』でニセ科学が話題になっていたので常々思っていたことを文章にしてみようかと。それまでは、非常にナイーブな問題で、米国のほうではインテリジェント・デザインとかいう物まで生まれてしまうほど議論にさえならない状態だったこの問題に区切りをつけて、科学とニセ科学を明確に分けたい!という衝動から書かれた文章。
伝えたいことは進化論の科学的な証明プロセスはありえない存在であり、進化論を科学と扱うことを否定して貰えればそれでいい。
進化論が流行らせた最大の間違いは何か?と聞かれれば私は獲得形質を挙げる。
既に遺伝学的に否定された獲得形質ではあるが、
この考えが根本となり、ナチスの優生論が生まれ、多くの人間が犠牲となった。
淘汰は自然には起こらず明確な人の意志によって行われたのだ。
(追記)
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20061226222936
実はこの手の話は感情的になる人間が必ずいる。しかし、大事なことは追試をどう行えば進化論が肯定・否定されるかを彼らが提示することはないという事実だ。
私は進化論が間違いだと言っているわけではない。そもそも進化論は否定する必要さえない段階の説なのだと言っているのだ。
タイトルが釣り過ぎという指摘はその通りでございます。賢い貴方に乾杯。
07:41:09-12/27(水)/2006
インテリデザインという不正確な表記をインテリジェント・デザインに訂正
14:11:45-12/27(水)/2006
【A】に対して。
科学の中でも追試が行われ易い分野とそう出ない分野がある。これは、時間スケールが関係しているよ。長い時間をかけて出来るような、天文学や進化の関連では検証が簡単ではないものが多いです。
でも、進化でも検証されてきてる分野はでてきてる。たとえば、大腸菌を使った進化を検証したものでしょう。だから、まったく、追試が出来ないかと言えばそうではない部分も持ち合わせているようです。それ以外にも社会性の昆虫の分野の性比の問題なども進化的な検証から成果を上げていますよ。パルサー天体のようなものもあるくらいだから恐らく、天文も同じでしょう。また、検証が難しくとも現存するデータで理論が正しいかどうかを確かめる為に統計学を利用しているが、20世紀半ばの集団遺伝学を引っ張ったフィッシャーのように統計学へかなり影響を与えたような事も産まれている。
科学ってものは未解決なものをといていく事で知見が深まっていく。未解決な例を上げて、否定する論法は偽科学と科学の関連でよく使われてるが、それでは説得力が乏しい。たとえば、進化が関連しそうな未解決なものを進化的な方法を取り入れずに解けたならそれは一つの有力な考え方になるだろうし、進化を否定する事につながるかもしれない。要するに、他の方法で未解決なものを説明する試みをしてみないと行けないです。もちろん、インテリジェントデザインのように、超自然的な存在がそうしたのだ。と一言で言われたら、変わりの未解決問題の解決説なのかもしれないが、ここで大きな問題は、超自然的な存在を持ち出す事によって、ブラックボックスを常に作ってしまう事にある。
このブラックボックスってのは、何か都合が悪い事があれば、超自然的な存在の影響だと言う捉え方も可能だし、逆に良い事があってもです。そうする事によって、それ以上の知見を求めない事に問題があると考えていますね。もし、超自然的な存在がいたとしたら、知見を深める事をタブーとはしないと思うけど。倫理的な問題はちょっと別だが。思考を止めて盲目的に信じる事がどのような事に通じるかそれは書かなくてもわかる人が多いだろう。
ただ、偽科学と科学の間にある対立で残念なのは、相互理解が全くないところにある。偽科学だと言われてるものたちが科学(=科学的手法)に対して誤解があるし、科学者が偽科学に対して攻撃的なだけのことも多い。科学じゃないけど、感情的な理解を少しはしていかないと理解はされない。情緒と論理の間の対立のようなものだ。ただし、科学への誤解が解ければ、おそらくニセ科学の多くは科学の顔をしないようになるだろう。
【A】に対して。
そもそも一卵性双生児の性格がまったく一緒かというと、そんなことはないわけで、つまり性格は遺伝要因と環境要因のうち後者の影響が大きいと考えられます(通常は似たような環境で育つので近いものになるとは思いますが)。昔の人はいいことを言った。「生みの親より育ての親」
模様については以下を参照のこと
http://plaza.rakuten.co.jp/kemusiro/diary/200608170000/
素人考えで性格も模様も一緒になるはずと考えるのは勝手ですが、みんなもそう思ってたと考えるのはどうかと思います。どちらも知識さえあれば事前に予測できたことです。昔の人はいいことを言った。「下手の考え休むに似たり」
以下蛇足。
この手の文章を読むと、だいたいどういう方面の人かというのが分かるのだけど(インテリジェントデザインがキリスト教右派の主張の焼き直しにしか過ぎないことがバレバレなように)、この文章はどうも分からない。分からない原因は対立概念が書いてないからだと思うのだけど、「進化論」がニセ科学だとするならば、人間その他の生物はどのようにして発生したと考えているのでしょうか。そこを詳しくききたい。
俺にとって「反証可能であるか」「追試可能であるか」どうかなどどうでもよく、
血液型性格判断も、マイナスイオンも、ゲルマニウムも、水への言葉も
「ナゼ」「どのような仕組みで」と言う部分をすっとばしているから「科学ではない」ではない。と言いたい。
「理由はよく分らないのですが、こうするとこうなります」
ではただの経験則であって、万人に通用するかは分らない。
「B型は身勝手だから」「マイナスイオンは体にいいから」「水が人の心(の波動)を受けるから」
全て「どのような仕組みで」をすっ飛ばしている。
だから『科学ではない』これではいかんのか。
ひとつの理由。
偽者と本物が同じ土俵に立つわけにはいかない。
同じ土俵に立って戦えばピエロになるだけ。
科学とはできないを突き詰めるもの。
可能性を夢想するものではない。
科学は万能などではない。
我々にはできないことの方が多すぎる。
だから前提条件が必要なのだ。
空を飛ぶ為には人間が両手を広げてブーンと言うだけでは飛べない。
これは前提条件だ。
「人間が飛べない」というものを証明したものではない。
同じ論点で、宇宙人がいないと断言するのは間違っている。
「宇宙人は少なくとも確認されていない。」
科学からすれば、それ以上でも以下でもない。
それを「居る」と断じる人たちと戦おうとするのが間違っているのだ。
「居る」「居ない」で戦おうとする人たちに
「いまは確認されていないのでは?」と問う声は届かない。
すべてはおまじない程度の可能性。
すべての可能性は否定はしない。
テレビが映るのを不思議と思わないのに幽霊を見るのは特殊な才能だと思っている。
そんなアンテナ感度の違う人たちと同じ土俵で戦えるわけがない。
仮説にもなっていない言説ということなんでしょうか?
かせつ 0 【仮説】
〔hypothesis〕ある現象を理論的に統一して説明するために立てられた経験科学上の仮定。その真偽の検証は、仮説から必然的に演繹(えんえき)された諸命題を実験や観察によるテストで確かめることによってなされる。検証された仮説は法則や理論として公認される。