はてなキーワード: 被災者とは
地震の揺れには、大きさだけではなくて揺れの成分って問題もあるんだよ。阪神大震災のときには建物の固有振動数にあたるような帯域の揺れが強かったから被害が大きかった。一方で、周期がゆっくり過ぎて人間には揺れを感じない「ゆっくり地震」ってのもあって、知らないうちに「被害皆無の大地震」というのが起こっていたりする。
原発はあの程度のやわな揺れで壊れたりしません。柏崎の一件も、壊れたのはどうでもいい周辺設備だけで、肝心なところはほとんど被害なかっただろ。
阪神大震災はあまりに犠牲者が多すぎたがあっちのほうが例外であって。
東北とかだとうつや貧困で自殺する奴の方が多いんじゃねえ?とか思った。あと孤独死。
地震対策はみんなやってくれるけど、うつや貧困や孤独死に対しては誰も助けてくれないんだよね。
自己責任論だけですべて片付けていいのかね?
それこそ、こういう災害のときだって、金持ちは死ななければどうとうでもなるけど、貧乏人は被災生活中に死ぬし。
東京の人間が心配してるのは、現地の被災者じゃなくて原発だもんな。まあ事故ったら真っ先に被ばくするのは現地人だが。
■被災地取材で、取材対象を選ぶとき、ものを食っているひとを捜す。別にご飯を分けてもらおうという魂胆があるのではなく、この被災の過酷の状況下でものを食える人は生きるパワーをもっている人だからだ。ものが食べられないほど、心理的ショックを受けている人を取材して、うっかり傷つけたりして、PTSD (心的外傷後ストレス障害)がひどくなったりしたら大ごとだろう。特に子供を取材するときは、ぱくぱく元気よくものを食べている子を選ぶのだ。
■そうやって被災地のもの食う人々を取材していると、気づいたことがある。中国の被災者は本当に元気にうまそうにごはんを食べているのだ。さすが挨拶が「ごはんたべた?(チーファンラマ?)」というような、「民以食為天」の国だ。
■そして、必ずいくらこちらがことわっても、食べろ食べろといって、はなしてくれない。本当に、断り続けると、「きたなくないよ」と不機嫌そうになるものだから、結局いただいてしまう。そして、つくづく、この人らは強い、生命力が段違いだ、と思うのだ。被災者からメシをめぐんでもらうけしからん記者と思われるかもしれないが、一緒にご飯を食べて初めてわかることもいっぱいある。こちらも、次に訪れるときは新鮮な果物とかを差し入れるようにはしているし、許してもらおう。
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/598628/
飯を食っているときはいい笑顔。
http://anond.hatelabo.jp/20080329151048
野次馬結構!私刑上等だろ。
自分がそんな目にあったら?知ったこっちゃないね。
こういうニュースがある↓「火災や事故の匿名発表は「過剰反応」です。」
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2008031403230.html
日本新聞協会(会長=北村正任・毎日新聞社長、140社)は14日、火災や事故の際に「個人情報保護」を理由に火元や病院搬送の状況などを明かさない事例が広がっているとして、全国の消防機関の広報対応の改善を求める要望書を増田総務相に提出した。
05年4月の個人情報保護法全面施行以降、警察や消防の広報現場では匿名発表が増えるなど、いわゆる「過剰反応」が起きている。要望では「プライバシーへの配慮は報道自らの責任」として、情報を隠さず広報するよう求めた。
こういう意見もある↓「すべてのことが国民の知る権利の前に完全にオープンであるべきであってその権利を遮蔽するものは排除すべし」
http://library.nakanishi.ac.jp/kiyou/gaidai(33)/05.pdf
「国民 の知る権利」を担保する「表現・報道の自由」実名報道の根拠は「国民の知る権利」に奉仕することにジャーナリズムの存在意義があるという点に集約される。
(中略)「原則としてすべてのことが国民の知る権利の前に完全にオープンであるべきであってその権利を遮蔽するものは排除すべし」
(中略)そこには先の大戦で国民に真実が伝えられなかったメディアの苦い経験が教訓として生きている。「権利は不断の努力によって守られるもの」ということである。
↑これによると火事の被災者の住所名前の報道は、被害者の家族や知人などが報道を通じて安否を知る事ができ、何らかの対処をする事ができるので役立つんだって。
http://www.asahi.com/national/update/0803/TKY200708030454.html
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007080300972
調査後の記者会見で「(地震は)替え難い貴重な実験、歴史的な実験かもしれない」などと、被災者感情からは不適切とも受け取れる発言
理系の自分からすればすごく同意できる「実験」発言なのだけど、世間的にはこれは失言なのかな。
とても辞任するほどの内容だともおもえないのだけど…。
文系に伝えるにはなんといえばよかったのだろうか?
「実証実験」とでもいっておけばよかったのかな?
データが取れたとかいっても失言なのかな???
ん??……。
(この終わりは絶対にないと思うけど)「はいパイロット全員生き返りましたー」の方が鬱度は高くなると思う。
パイロットだけ生き返って被災者が生き返らないなんて事になったら、民衆が暴走して惨殺コース…。
あれ?どこかで見た事あるような…w
判ってないなあ…
予算も装備も各自治体で定められてて他自治体を含む活動の広域化は、ようやく端緒が付けられたばかりで
実際に動くとなるとまだ連携も未熟。
さらに他の増田もいってたけど地元の人間で構成されている組織である以上
構成している団員もまた被災者なのだから十全に活動できる状況にあるとは言えない。
さらに災害後の復興にも費用が掛かるのに、これらの組織が活動する費用は自治体にとって
大きな負担になるのは当然。
となると現状では自治体より大きな権限と予算を持つ国の助けを借りるのが当たり前。
そして国が救助活動を支援しようとすると、まともに動ける組織は自衛隊しか無いわけだ。
逆に聞きたいんだけど、何でそうまでして自衛隊の助けを借りるのを嫌がるわけ?
元々は石原都知事の発言に対して噛み付いたのが始まりなんだろうけど、
最初に政治的な主張がありきで現実に即応した対処が出来てないのはどう考えても左巻きの方じゃん。
自衛隊の救助要請をスムーズにするということと、軍備拡張は全く別の問題なのに
勝手に混同して「平和が平和が壊れちゃうヨー!」とか嘆いてるからバカサヨって言われるんだ。
近隣住民が頑張ればもっと人が助かったのかもしれない。自衛隊ももうちょっと機敏に動けばもっと人が助かったのかもしれない。勿論両方頑張ってたらもっともっと多くの人が助かったかもしれない。それだけの話だろ。両者は択一の問題じゃない。両立できるし、するべきだ。
自衛隊が出動する事で救われる命がある。それなのに糞下らん政治的主張でそれを否定するのは、助かる命を切り捨てる事と同じで、人殺しも同然だ。
http://anond.hatelabo.jp/20070429020539
で書いたことの補足なんですが。
まず択一問題を立てている論者は誰なのか、というのが一点。
両立できないと考えている人はいませんよね。ここには。そこは少し冷静になっていただいて。
要は、トップダウンとボトムアップは両立する。別にそこに議論があるわけではないように思います。
http://anond.hatelabo.jp/20070429013850
は被災者として多少感情的になった一面はあるにせよ、大方正論といっていいと思います。
国家防災計画にあたって、自衛隊や消防隊の初動すなわち公助をいかにシステマティックに組み立てるかがきわめて重要であることはいうまでもありません。
しかし、いかに人命を救助しえたかを議論する場合、死亡との因果関係の分析を欠かすことはできません。
被災者の死因の分析から救助手段として防災計画を考えると、やはりキーになるのは、瓦礫の下にいるかもしれない人たちの発見、救出をどうするのかという問題です。
あなたがおっしゃるライフライン復旧の問題、それは確かに重要ですが、死因とのかかわりからいうと、優先順位としてはどうでしょうか。
さらにいえば、消防庁や自衛隊の災害派遣部隊の初動を迅速に進めるべきであるということに全く異議はありませんが、しかし、どうしてもスポット的にならざるを得ません。
都市型震災というのは航空機墜落などの人災や土砂災害などと違って、面的なハザードです。
広大な被災エリアに闇雲に点を投入する形にならざるを得ないわけです。
つまり、これが神戸の知事さんたちが問題にしている、公助には限界がある、という論点です。
彼らの主張は、自衛隊がもっと早く投入されていれば2000人助かったという分析は楽観的すぎるのではないか、ということですよね。自衛隊の役割の中心はおそらくそこではなく、ボトムアップの努力を前提としたうえでのインフラの復旧や食料住環境の提供を主体としたバックアップ体制なんじゃないでしょうか。
地域住民がここに社会的弱者がいるよと救助エキスパートに伝達できる体制、その連携といいますか。
そこで地域住民の防災意識とかいう話になってくる。
ただ、余談ですが、ボトムアップが重要だという教訓は、その阪神大震災以降、いろいろな防災関連の法整備のなかで多少ゆがんだ形でも現れてきたように私は感じていまして、例えば、先のリンクで紹介した毎日新聞の記事のなかで次のような結語があります。
人命救助は「自助」「共助」「公助」の順に進むものである。
これ自体は、近代法の原則からいって論理的に全くそのとおり、といいたいところなのですが、しかし、公助には限界がある→自助(自己責任)でお願いね、と強調されると困ったことになるのも事実。例えば、これまでハード面で提供してきた公助をやめようという話があるわけですよ。もう防災公共事業は沢山だ、と。これ以上日本の山河を鉄とコンクリートで固めてもしょうがない。リスクに関する情報を的確に住民に提供するからあとは自己責任でやってくれ、と。土砂災害防止法が典型なのですが、これは実務に関わっていて、疑問に感じるところがないわけではないですね。
http://serif.hatelabo.jp/166ab177af22b17b67e21efe59eb8c0ed0863599/
小学生の僕は毎日学校に行かんと、この赤い部屋に引きこもっとったわ。点けっぱなしにしとくと暑いからたまにパチッと電源オフにしてさ。部屋が真っ黒になっても、居心地悪い暑さがまだ残っていても、外に出る気は起こらんかった。外っつってもこたつがある六畳の部屋なんやけどさ。手が届くとこにテレビが置いてあって、本体にチャンネルを直接変えるボタンが付いてんの、こんな感じで
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東芝のテレビやったかな。阪神大震災も、そのテレビでリアルタイムで観た。おかんと石油ストーブにあたりながら、なんやったかな、学校行く準備してたんやったかな。あんま学校のこと憶えてへんけど、あの揺れはすごかったよ。僕のとこと、震災の被害にあってしまった人達とでは全然感じ方が違うかもしれやんけど、僕が感じた揺れを一言でゆうんやったら「スラッシュ」
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昔のお笑い番組で、芸能人がクイズに答えられへん度に角度が上がる滑り台、あれに突然乗せられた感じ。芸能人ちゃうからわからんけどさ。あれに、家や、なんやすべての生活基盤が乗っかったらそら何千人も死ぬわな。ごめんな被災者の人。こんな言い方したら失礼かもしれんよな。(僕)君は比喩がうまいよねってゆわれたことがあって、僕は褒められたような気がして、物事を例えるのが癖になってさ。あかんよね、女は機械とかさ。
まだ、そのテレビとかこたつはその部屋に残ってて僕は忘れたいから捨てたいんやけど、おかんとかおとんが捨てさせてくれん。もっとあったかい暖房買ったるからとかいうと、あっちは黙って返事がもらえんかったりする。どうすりゃええんさ。その沈黙は息子がプレゼントしてくれることを喜んでる照れ隠しの沈黙なのかもったいない思考停止なのか。僕は明確な返事が欲しいんやって! 勝手に捨てんで! 親戚の兄ちゃんに(僕)君は配慮ができないよねっていわれたことがあるけど、察するなんて出来んて! だって僕ずっとひとりやったんやで。長い間引きこもってたのもったいなかったなあ、って思ったから大人になった今積極的になろうとしてるのに配慮なんて知りたくないよ! そんなこと言われたら僕はまたあのこたつに帰りたくなるやんか。捨てさせてくれよ。
そろそろチョコレートが売れる季節だ。バレンタインデーには女子の皆さんが費用を出し合って義理チョコレートを男子の皆さんに配布する、という風習のある職場は多いと思う。私のかつての職場は男子が圧倒的に多かったため、バレンタインデーのチョコレート購入費は膨大で、女子の経済的負担は過大であった。しかしホワイトデーにはなぜか男子が個々に女子全員へ過分なプレゼントを贈る傾向があり、そっちも経済的負担がたまらんかったであろう。
以上、枕。かつて私には職場的バレンタイン風習についていくつかの案があった。過去形。
第1案「義理チョコ廃止」。
もらう側の男子の皆さんだけでなく、こんな風習なくなってほしいと愚痴をこぼしていたはずの女子の皆さんからも「ずっとやってきたし」「楽しみにしてくれる人もいるし」「職場のうるおいとして必要」と反対が出て実現せず。意外に根が深い。
第2案「チョコあげたつもり、ホワイトデーのお返ししたつもり、で阪神淡路大震災被災者向けに募金」。
募金したのにやっぱりチョコも配った。なんでやねん。でも幹事が神戸のメーカーのチョコレートを買ってきてグッジョブだった。
第3案「2月14日と3月14日は男女対抗おいしいお菓子プレゼンテーション大会」は提案する前に OL を引退してしまった。これは、2月14日と3月14日に、みんなでお金を出し合っておいしいお菓子を食べて一服しましょう、が趣旨で、それだけじゃ面白くないので男女がお菓子選びのセンスを競う対抗戦にしましょう、というイベントである。
2月14日、先攻女子。賛同者から募った出資((好みや健康の問題があるので、出資の際、甘いものと辛いもののどちらかを選べるといいと思う。両方食べたい人は2口出資))をもとに、女子の意見で選んだおいしいお菓子が購入され、午後3時をもって配布される。皆でしばし仕事の手を休めて賞味し、味やボリューム、仕事の合間に食べやすいかなどを点数評価して投票。3月14日は後攻男子。男子の意見で選ばれたおいしいお菓子を皆で食べ、また投票。投票結果は後日集計して貼り出し、勝ったの負けたのとわいわいやる。予算が余ったら翌年用に積み立て、また両軍の買い出し係をねぎらうのに使う。
お固い上司がお菓子を食べる姿に親しみを覚えたり、酒豪のあの人が意外に甘党でもあったり、お菓子という他愛のない共通の話題のおかげで普段接点のない人と気軽に話せたりすると思う。まあこんなことを思いつくぐらいのんびりした職場だったということです。聖バレンチノも、職場で茶飲み話をするダシにされるぐらいは許してくれるだろうか。
90年代に出た本なんだけど、ある本を読んでいたら阪神大震災の話が出ていた。その本の著者が阪神大震災のときに感心したのは、家族を亡くしたり家が全壊したりした被災者の人が、物凄く悲しくて打ちひしがれているはずなのに、人前では思いっきり泣きわめいたりせずに節度を保っていて、とても冷静だったということらしい。これが海外の発展途上国での戦争や災害のニュースだったら、人前やテレビカメラの前でもっと感情的に泣きわめいている人がたくさんいる(メディアがそういう絵を好んで流すというバイアスもあるが)。
人前で思いっきり泣くというのは、自分に起こった出来事を社会とか世界とかいう大きな観点から捉える視点がないということなんだ。確かに家族が死んだのは悲しいけど、それは自分だけに起こったわけじゃないし、自分一人の悲しみは社会全体にとっては小さいことだということも自覚している。そういうことを自覚している時には、人は人前では思い切り泣きわめいたりしない。せいぜい静かに涙を噛み殺すくらいだ。人前で思い切り泣きわめく人があまりいないということは、日本人がそこまで個人の立場から離れて社会的な視点を持つことができるようになったという、それくらい成熟しているということで、今までにない大災害が起こることによってそれがはっきりとした、ということらしい。
それに比べて俺は何やってるんだろう。何か悲しいことや不幸なことがあったら欠かさずブログに垂れ流している。失恋などしたらいかに自分がかわいそうかということをブログで詳細に書きまくり、「元気だしてね」「かわいそうに」とかいうコメントがついてもコメントの数が少ないとか不満に思っている。自分の悲しみは世界全体に共有されるべきだと思っている。おかしいよね、世界は俺中心に回っているはずなのに、俺がこんなに不幸なときに世界で幸せそうな奴がいるなんて。システムの管理者がさぼってるとしか思えない。俺は何て子供っぽいんだ。みんな偉いよね。悲しいこととか辛いことがあってもその感情を全世界に向けて発信したりせずに一人で抱えこんで頑張ってるんだよね。お前ら頭おかしいよ。ていうかここに書いてるこの文章自体も俺以外には全く興味がないどうでもいい個人的なものだよね。そんな醜いものを人様の前に出すなよチラシの裏にでも書いてろよだよね。ごめんなさい死にます(すぐ死ぬとか言う)。