90年代に出た本なんだけど、ある本を読んでいたら阪神大震災の話が出ていた。その本の著者が阪神大震災のときに感心したのは、家族を亡くしたり家が全壊したりした被災者の人が、物凄く悲しくて打ちひしがれているはずなのに、人前では思いっきり泣きわめいたりせずに節度を保っていて、とても冷静だったということらしい。これが海外の発展途上国での戦争や災害のニュースだったら、人前やテレビカメラの前でもっと感情的に泣きわめいている人がたくさんいる(メディアがそういう絵を好んで流すというバイアスもあるが)。
人前で思いっきり泣くというのは、自分に起こった出来事を社会とか世界とかいう大きな観点から捉える視点がないということなんだ。確かに家族が死んだのは悲しいけど、それは自分だけに起こったわけじゃないし、自分一人の悲しみは社会全体にとっては小さいことだということも自覚している。そういうことを自覚している時には、人は人前では思い切り泣きわめいたりしない。せいぜい静かに涙を噛み殺すくらいだ。人前で思い切り泣きわめく人があまりいないということは、日本人がそこまで個人の立場から離れて社会的な視点を持つことができるようになったという、それくらい成熟しているということで、今までにない大災害が起こることによってそれがはっきりとした、ということらしい。
それに比べて俺は何やってるんだろう。何か悲しいことや不幸なことがあったら欠かさずブログに垂れ流している。失恋などしたらいかに自分がかわいそうかということをブログで詳細に書きまくり、「元気だしてね」「かわいそうに」とかいうコメントがついてもコメントの数が少ないとか不満に思っている。自分の悲しみは世界全体に共有されるべきだと思っている。おかしいよね、世界は俺中心に回っているはずなのに、俺がこんなに不幸なときに世界で幸せそうな奴がいるなんて。システムの管理者がさぼってるとしか思えない。俺は何て子供っぽいんだ。みんな偉いよね。悲しいこととか辛いことがあってもその感情を全世界に向けて発信したりせずに一人で抱えこんで頑張ってるんだよね。お前ら頭おかしいよ。ていうかここに書いてるこの文章自体も俺以外には全く興味がないどうでもいい個人的なものだよね。そんな醜いものを人様の前に出すなよチラシの裏にでも書いてろよだよね。ごめんなさい死にます(すぐ死ぬとか言う)。