はてなキーワード: 死ぬこととは
『HELLSING』5巻における少佐の「さあ!! 諸君!! 殺したり殺されたり死んだり死なせたりしよう」という発言、ある意味では究極の自由主義だよなあと思う。もし吸血鬼化したりして不死者になり、死ぬことが絶対的な損失でなくなるのならば、殺したり殺されたりすることもまた自由の範疇に含まれるようになるのではないだろうか?
「好き勝手に振る舞う」人は、他者から「好き勝手に振る舞われ」ても文句が言えないという不自由を負うことになるので自由ではない。単なる弱肉強食の社会を「ある意味では究極の自由主義」というのはおかしいと思う。『動物たちは究極の自由主義者です』と言い換えてみれば、そのおかしさがよく分かると思う。
特に弱者において、『自由』がこの世界ではひどく簡単に踏みにじられたり失われたりするという指摘はとても正しい。だからこそ、弱者においてまず自由が実現していない社会を「自由な社会」だとは思わないし弱者の自由を踏みにじる形で強者の自由を実現させかねない考え方を「自由主義」と呼ぶのは間違っているのではないだろうか。「弱者の権利」を主張して殺された多喜二の死体写真は、僕も見たことがある。
ただし、大元の「もう好き勝手に記事が…」という記事に対して切れるのは、これとは別の意味で賛成だ。なぜなら、元記事は「はいはい、すいませんでしたー」とふて腐れてみせることで読者を脅迫している。つまり『強者』に他ならないからだ。強者がその立場でもって批判を封殺しようとしているだけに過ぎない。一度言論の場で主張をはじめたら、ふて腐れて相手を脅迫するのでなく、論理には論理で立ち向かうべきだ。だから、ああいうふて腐れを批判するには「スネてんじゃねーよ馬鹿」で充分であり、「批判もまた自由だ」という論を立てるべきではないと思う。
「セックスと嘘とビデオテープ」って映画があったじゃない?あれの一番最初のシーンで、主人公と思われる女性が、精神科医相手にゴミの話をする。自分の捨てたゴミや他の人の捨てたゴミがどうなるのか気になって夜も眠れない時があるって。医者は気が滅入っていると、自分ではどうにもできないことが気になったりするもんですよ、とかいう。まさにそれ。自分のできないことが恐ろしくて、考えると、恐怖だし、ご飯が食べられなくなった。いや、ゴミのことは気にならないけど。中国で死んでいる人たちのことを考えるとひどく落ち込む。そのくせ、自分が死ぬことには全く無頓着、というのは滑稽な比較、だと自分では思うのだけど。
お前はおれか?
僕はそれでも、彼女のことが好きだ。最悪だよ、新しい男がいるけど、あなたとは寝たい、なんて。僕は死ねばいいのにって思えるけど、中の人はそういう風に思えないだよね。僕もそのシチュエーションにいたら憤慨すると思うけど、どうかな?それでもこいつとは絶対終わったって思えないと思う。
僕は死ぬことしか考えてない。死のうとか、言い出さないもと増田は僕より強いなぁ。
英語のことわざに、何が手に入らなかったとしても、経験は残る、ってあって。じゃぁ僕の残りの人生に、この経験を生かすとしたら、もう人を信じないこと、好きならないこと、くらいしか、思いつかない。
もうずっと前からだけど、生きてくのがしんどいんだよ。リタイアしたいんだよ。
でも、安全になるべく苦しまずに、迷惑かけずに死ぬ方法がなかなか思いつかなくて実行できない。
潜在的労働力だから死ぬことは許されない、じゃなくて、リタイアしたいという希望も認めて欲しい。
苦しまずに安全に死ぬことができる方法の公的な提供って充分公共の福祉に則ってると思うんだけどな。
あれば利用したいって人は相当数いるように思う。
配属される人の心的ストレスは相当なものになりそうだから、なるべく自動化できたほうがいいかなとは思うけど。
でもそれがストレスにならずにそうやって自分で自分の人生の終わり方を決められるのは幸せなこと、ていう価値観が認められる世の中が理想だ。
自殺も権利と認めて、他人になるべく迷惑をかけずに、なるべく苦しまずに死ぬことができるように、公的な自殺支援センターってできないかなと夢想してる。
たとえばロビーには、自殺の手引きみたいな、自殺する前にやっておくべきこと、たとえば公共料金や賃貸契約の解約とか家具などの持ち物とかの処分の仕方とか遺書の書き方とチェックシートが書いてあるようなリーフレットが置いてある。
その内容に沿ってそれらの処理を一通り終わらせた人は、身分証明できるものと死後の処理用のお金を持ってきたら、安全な方法で安楽死させてくれるの。
例えばカプセルホテルみたいなところに入ったら睡眠ガスの注入→致死性のガスの注入→換気後そのまま火葬、とかさ。
自殺するような人は遺体を残したくないって希望の人もいるだろうし、火葬してそのまま遺灰は処分するかあるいは親族が後で取りにこられるように保存しとくかは本人の事前申告次第にする(それによって料金も変化)。
死亡したことを知らせたい相手に何日後に通知してもらうかってのも事前に本人が指定できるようにする。
そういう施設があれば、身元不明の自殺死体の身元を調べるコストもかからなくなるし、電車への飛び込みとかで何万人もの交通に影響を与えるようなこともなくなるし、ガス自殺なんかみたいにうっかり巻き添えを食らうこともなくなるし、いろいろとメリットあるよね。遺族の人も突然振ってくる様々な残務処理が随分減るしね。死にたい側も好きで周囲に迷惑かけたいんじゃないし。
そういう施設があったら自分は是非利用したい。
ミクロな問題とマクロな問題を(おそらく意図的に)ごっちゃにするのはどうかと思う。
ナンパなんかは完全に個人レベルのミクロな問題であり、こういった「正論」は当てはめることができるが、
果たして
「会社は社員から搾り取ることばかりで、社員のことを何も考えてない」とか「従業員をサービス残業させて搾取している」とか、
つまるところ「自分たちは苦労してるのに、重役達は楽して良い思いしている。むかつく!」みたいなエントリーを読むと、
これらの問題はどうか。
日本社会全体の、国レベルで解決すべき問題でありつつ、しかしなんやかんやいっても、現状を変えるには個人レベルで動かねばならない、という二つの視点が絡み合っている問題なのだ。
「現実的には」そう不満や問題点を述べたところで急激に環境が変わってくれるわけでもないため、個別で対処せざるを得ない、
というややこしさ。(別に本当はややこしくもないんだが)
その問題を、ミクロな視点のみでぶったぎっているから、この「正論」は新聞の読者欄にのる「いい子ちゃんな意見」あるいは「自己啓発本」の域を出ないのだ。
両方の視点から問うべき問題であって、どちらか一方からぶったぎるのでは何も解決しない。
「要は勇気がないんでしょ?」
って、こんなところで勇気を出して確率低い賭けに挑んでいかねばならないような社会がだから既にダメだという話なのだ。
北朝鮮の人間に、「じゃあ、脱北すればいいじゃん。そりゃ捕まって殺されるかもしれないけど可能性はゼロじゃないでしょ?それなのにしないのって、殺されるかもしれないのが怖いだけでしょ?要は勇気がないんでしょ?」と言ってるのに近い。(まあこれも大袈裟だというのは分かっているが、ナンパのそれよりはまだ近いと思う。会社を起こして死ぬこともあるのだから)
彼らは何故上記のような不満を発しているかと言うとそもそも、「普通に仕事をやっていれば、普通に休みもあって、普通に給料もそこそこもらえて、頑張れば上にいけるかもしれない環境が欲しい、でも今はそうじゃない」から不満を発しているのである。そんな彼らに「会社おこせば?」は問題を何も認識していないに等しい。彼らは博打を打たず、ただ普通に平穏に生きたいのに、なぜそれができないのか、と声を上げているのである。そしてそれは、本来なら国はそれらを保証すべきであるし、一昔前までは実際にそんな社会が成り立っていた。それらを望むのは、別段先進国であれば贅沢すぎることではない。国民としての普通の要求だ。
それを「勇気がないんでしょ?」って、勇気が無い人間でも、住めるような国、恐ろしい賭けに挑まなくても平穏に普通になら生きていける国であるべきなんであって、「勇気がない人間なら、その現状はしゃーないわ」なんてことになっている国って時点で、だからすでにヤバいのである。
とはいえ現実問題として、「でも、実際問題、実際問題だよ、今の君のその状況をね、変えるには、結局、他の可能性が難しかろうが、それをやってみるしかないんじゃないかい?」といえばそれはそうだ。しかし、だからといって、それをしない人間を「勇気がないだけでしょ?」と個人レベルの問題に擦りかえるやり方はマクロな問題を把握しきれていない(あるいは怖くてその問題から目を背けている)だけだ。
「現実問題変えたいならやるしかない」
ということから
「それをやっていないやつは、だから、勇気がないだけ。不満をたれながして情けない奴」
とするのが問題だ。そこまで飛躍させると、マクロな問題がミクロな問題、つまり個人レベルの努力だとか気力なんつーものに押し付けられて、政治家までもが「個人でがんばってもらうしかない」とかバカげたことを言い出すことになる。
俺たちが個人個人で頑張るのはいいが、それはそれ、これはこれ。また同時に、社会に対する声は上げ続けていくべきなのだ。どんなに効果がなさそうであっても、上げなくなったらそれこそ終わりだ。そもそも可能性が低くても、社長になってみればいいじゃんなんて言うくらいならそれこそ、実現する可能性が低かろうとも社会に対して声を上げ続けるべきなんじゃないのか。しかも後者は前者に比べ、リスクも無いのだ。別に、どちらか一方にする理由も無い。社会に大いに愚痴を吐きながら行動したっていいのである。
このエントリ、「でもやるしかないじゃん」という言い分は分かるが、「勇気が無いんでしょ」だのナンパの例だのを持ち出したのがよくないところだ。問題がごっちゃになっている。「文句を言うな、ということではないんです」だのなんだの一応言っているが、この論では結果そういうことになってしまっている。ほとんど「文句を言うな」に等しい。こんな焼け石に水のような一文を書いたところでなんの免罪符にもならないのだ。
(というかそもそも個人的には、正当な不満以外口にしてはいけないという異常にマッチョで「正しすぎる」空気がそもそもどうかと思う。もっとファジーに、緩い社会でもいいだろう。正当なものでなければ、一片でも自分自身に原因があるのなら不満を言ってはいけない社会ってどんだけ窮屈で余裕が無い社会なんだよ。病的なまでに優等生で怖いわ。そんな簡単に人間皆が優等生になれたらこんな社会にそもそもなってねぇっての)
あるいは勿論、そんなことは重々分かりつつも自己啓発本のように人々をとにかくなんでもいいから勇気付けるために「敢えて」その辺を乱暴にぶったぎって書いたのかもしれない(受験中に「頑張れば絶対受かる!」と敢えて思い込むように)。そうであったとしたら余計な茶々入れではあるのだが。
浮気は仕方がないことなのかもしれない。
でも、それと、わたしの尊厳を踏みにじることとは別の悪さだ。これ見よがしに目の前で彼女とメールしたり、わたしを家から閉め出したり。冷却期間を置くための別居、といいながら結婚指輪は捨てて出ていったし、こちらがせっつかないとそれ以降連絡もしてこなかった。彼女からはビッチ扱いを受けて、「わたしたちに関わらないで」とキレられた。彼はそれを止めもしなかった。
自分たちの罪悪感を薄めるためにやってるって、頭では思うけど、それでもズタズタになる。だってもうわたしなんて人間として扱われてないって感じるんだもん。
あれから何年も経って、まだ死ぬことを考える。自分は価値のない人間だって思う。「忘れろ」「なぜ変わろうとしない」って責める人もいる。心配してくれてる気持ちがあるのも分かってるけど、やっぱり責められてるようで、後ろめたい。苦しむことにも罪悪感がある。
やっぱりわたしがおかしいのかも。あそこまでされるには罪悪感以外にも理由があるのかも。自分では分からないけどバケモノみたいな存在なのかも。あるいは自我が脆弱なユーレイなのかも。こんなめんどくさいこと考えて泣いてばかりいるなら、死んだ方がいいのかも。
答えはでない。
別れるときでもせめて互いの人格は尊重しあいたいものですね。
絶命する瞬間じぶんはどのようなことを思いどのようなことを感じているかというのを考える。
以前車に引かれかけたとき少し肝が冷えたのは覚えているのだが、何を思ったかは覚えていない。
部屋で転び倒れかけた場所にとがった物体があったときなども肝が冷えはしたが何を思ったかは覚えていない。
何も考えていなかったかもしれない。もしくはその寸前のみ無心でいたのかもしれない。
走馬灯という現象はフィクションの中や伝聞情報において見かけるが体験した覚えはとんとない。
これまでの人生を振り返ることなどこれまでの危機的状況においては対峙したことなどない。
大切なものを思い起こして死ぬんじゃないかと思いはするが自己の体験においてはまさしく無心なのだ。
もし死ぬ瞬間頭の中は空っぽであったなら死は恐れることでのみ恐怖の存在なのではないか。
死ぬことについての格言やらの受け売りだけど、死ぬことは想像することによってのみ恐怖足りうるのだろう。
だけどちょっと待てよ。死ぬ瞬間何も考えないのは寂しくないか?
大切なものすらどこか彼方にすっ飛んで無心で死ぬなんてもったいないだろ。
そう考えて僕は思った。
「せめて好きだった子くらい思い出しておきたいよなあ」
いま隕石が降り注いだなら僕は思い出に浸りつつ逝けるだろう。
死ぬ寸前僕はその考えを巡らし結論にたどり着いたとき足元が。ふわっと。意識がとんだ。
なるほど、不確定なのが怖いのか・・・。
全財産かけて博打するようなものなのかな?
んで、死ぬことがこんなにも嫌で怖いのは色んな要素があるからと。
生きてるのが嫌だけど、死ねないって人はこの辺を越えられないのだろうか?
もし、楽に痛みを感じずに死ねる薬が市販されててもそうそう自殺者は増えないかなぁ
結論からかくと、精神科へは行くな!
病院に「患者」として行くわけだから、そりゃ何らかの(不定愁訴だか、自律神経失調症だか、病名ならぬ病名。絶対死ぬことはない、はしかみたいなもん)「病名」を告げられる。そうしなきゃ医者としてもメンツがたたんもんね。
さらにタチの悪いのは、半年とか1年とか通わせる。その間何をやるって、薬の処方を試してる。AとBの組み合わせを、AとCに変えてみましょう、とか。アホである。薬代全額患者持ちを棚に上げてなにを悠長なことをいっとんのか。ふつうの小売業でそんな商売成立するとおもっとんのか!まさか気が変になってないだろうね。
で、結局、薬なわけよ。良い精神安定剤は90年代に多く開発されたからね。科学者、薬剤師のおかげ。そう、薬剤師さえ居れば、精神科のお医者いらねんじゃねー。
いい人だとはとても思えなかったし、だから好きになれなかったし、適当につきあうのすらめんどうだったけど、それでも、あのときわたしがきちんと電話に出てそれなりに対応していれば、あのひとは死んだりしなかったんじゃないかって思う。思うたびにぞっとする。
あのひとが死ぬことを選んだ理由のうちの何分の一か、何十分の一か、何百分の一か、とにかく、いくらかは絶対にわたしのせいだ。
最後に電話を切ったときの声のかんじ、いまでもおぼえてる。
もっとやさしくできればよかった。
どうしてできなかったんだ。だって、思わなかった。あの日の夜に死んじゃうなんて思わなかった!!
好きじゃなくったってなんだって、きちんと話を聞くべきだった。そのくらいのこと、できたはずなのに。
と軽いヘマで500万の借金抱えてた俺より。(なんとか自力で完済した)
できたもんは仕方ない。諦める。
とりあえずお前がすることは死ぬことじゃない。弁護士に相談することと、妻に打ち明けること。(専業主婦で実家があるなら戻ってもらうこと)つらいだろうが、戦うにしても死ぬにしてもギリギリの状態で一家で暮らしていくよりも、一人で戦って落ち着いてからやり直した方が家族全員にとって良い方向になる。
この際恥もくそもあるか。
あと、お前にはネットできる環境があれば仕事もあるんだからまずはとにかく情報を叩き込め。
死にたい気持ちは分かるが、案外日本は金ない人間は直ちに死ねというやわな社会にはできてないもんだよ。
頑張れ。
親については個人的にはほとんど問題にしていない(と思う)が、別の問題で。
優しい自殺者に対して「死んだら皆が泣くんだぞ。お前がどうこうじゃなくて、皆に迷惑だ。だから死ぬな」と言うのも、本当に「俺らが迷惑だからやめろ」と言ってるのではなく、とにかく「優しいあいつを引き止めるにはどうすればいいか」という問いから導き出された答えなのであろうが、しかしその「本当の想い」が、そんな錯乱中の当人に果たして伝わるのか否か。
(略)
そういった心に余裕が無い人間は、それを「そのまま」受け取り、例えば自殺者ならば「俺は死んでさえも迷惑なのか。俺は死ぬことすらできないのか?俺はどうすればいいんだ?」と尚更錯乱するだけであろう。親のせいで人生狂ったと嘆く人間ならば、「じゃあ私が悪いのか?私は何もしていないのに」と益々自己を責め苦悩するばかりであろう。
(略)
もう正常でない彼らは、優しさゆえに気持ちを汲み取るなんて事はできず、優しさゆえに自己を責めるほうへと進むだけである。お互い優しさが空回りし最悪の結果を呼びかねない。それは皮肉で悲しすぎる出来事だ。
そんな伝わるかどうか分からない事を、ある種正常でない者に伝わってくれと期待してはいけない。相手にはそのまま伝わると考えるべし。そう考えたら、とてもじゃないが自殺者に対し「お前が死ぬと皆その後始末で迷惑だからやめろ」なんて事は言えないだろう。苦悩している人間に、「親のせいじゃなくてお前の責任だ」などと安易に言えないだろう。優しさのつもりなら、それは大間違いだから、今すぐ止めた方がいい。
実際に言われたことがある。さすがに凹んだ。なぜ死ぬ権利さえないのだろうと思った。
理不尽に振ってきた親からのある種の暴力だ、でもこの親たちはそれを変えられないから、自分は変わりたいから、じゃあ自分で変わるっきゃない。それでいいのである。
無理に自分の責任にしたところで、前に動けるどころか、その責任の重圧に押しつぶされ動けなくなるだけである。
空き巣に入られたのを、「防犯カメラをつけていなかった自分のせいだ」と責め続けるより、「空き巣の野郎。許せん。しかしとりあえず警察に届け、当面の金をなんとかして、部屋を片付けなければ」と動いた方がよいのである。
これも言われた。あなたが気をつけていれば、と。絶対に認められなかった。どんな詭弁を使っても認めなかった。どの国に泥棒より被害者が悪いなんて法律があるんだ、と言い張った。
極論を言えば、恨んで済むならいくらでも他人を恨めばよいのだと俺は思う。ただし犯罪行為はしちゃいけない。自分の心の平穏の為恨むだけなら寧ろ恨んでしまえばよいのである。それはもしかしたら見当違いの恨みもあるかもしれないがこの際それでもいい。なんでもかんでも「自分が悪いんだ」「私のせいだ」そう思いこんだり他人からやたらと「お前にだって非がある」「お前のせいなんじゃないのか」と言われるのはもう端から見ているのもごめんである。そんな事して何になるというのだろうか。
ある意味とても正しい。そして難しい。
被害者であるということは一時であれ、完全に自分が恨める立場に立てる。欺瞞かもしれない。でもそうしないと壊れてしまう時期もある。そういう時期は絶対に必要だと思った。今も思っている。自分が加害者でもある場合は、できれば被害者は全開で恨んでくれていたらとも思う。
でもそれはいつか止めなければ、別の意味で自分が壊れていく、と思う。恨みというものが持つ毒性は、絶望と同じくらいに強いから。
人は恨んでいい。被害者になっていい。自分を守っていい。
でも、責任は持った方がいい。それは多分救いになると思うから。
それについては、まだ考えている。
という論調をよく見かける。
「親からあれこれこういう目にあわされて、俺私はこんな風になった」と言っている人間に対し、
「お前もう○歳なんだろ?ならもうそれは、お前の責任なんだ。親のせいにするな」(これは20歳とは限らない、高校生くらいの場合もある)
と言う論調である。
でも、果たして本当にそうなのか?
確かに、法律的な、そういったある種の便宜的な意味ではそうならざるを得ないのかもしれない。要するに「だってそんな、いつまでも際限なく親のせいなんていってたらキリがないじゃん。その親を育てたのも親だしさ。だから20歳からは自己責任ってことで」という意味あいである。
あるいはまた別の便宜的な意味として「親にもう拘るな。親を恨んでも仕方が無い。そんなことは忘れて、もう自分で変えるしかないんだ」という、責任云々というよりも、当人のために敢えてそういういいかたをする、というのもまた有り得る。
確かにこの二つはそれなりに正しいように思える。実際正しいのかもしれない。でも、これは、「んで結局、親の責任なのか否か?」に対して、真正面から答えてはいない。現実的に進む為の便宜的な答えというだけであり、真正面から答えてはいない。有る意味では逃げている。
では真正面から答えるとどうなるか?
それは、個人的には、「やはり、依然として親のせいである」と思うのである。
20歳を過ぎたらも何もない。本当にそれは親のせいか?という問題はまた別の問題だが、20歳を過ぎる前であれば親のせいであると認定されるようなものであれば、やはり、依然として20歳を過ぎたところで親の責任である。
というより、年をとったから責任が突然解除される、という方が不自然で意味不明である。根拠も無い。
19歳までは親の責任だがその一年で自己を変えられないまま20歳に突入すれば「自己責任」になるというのだろうか?なんだか滅茶苦茶な話だ。
例えば幼い頃虐待にあい、そのせいで性格が歪んだというなら20歳になろうがそれは親の責任である。
20歳過ぎたら、自己責任だという人は、おそらく大体の人は上のように真正面から答えるのではなく、当人のためにと答えをわざとズラしているのであろうが、それはある種危険な行為でもある。その「想い」(本当に「親の責任でなくお前だ」と主張したいのではなく、当人がこれからの人生を歩んでいけるようにいう想い。優しい人が自殺するのを止めるのに、「周りが迷惑する」と敢えて言うことで止めようとする手法と同じように)が、伝わればいいが、果たして本当に伝わるのかどうか。今も言ったが、優しい自殺者に対して「死んだら皆が泣くんだぞ。お前がどうこうじゃなくて、皆に迷惑だ。だから死ぬな」と言うのも、本当に「俺らが迷惑だからやめろ」と言ってるのではなく、とにかく「優しいあいつを引き止めるにはどうすればいいか」という問いから導き出された答えなのであろうが、しかしその「本当の想い」が、そんな錯乱中の当人に果たして伝わるのか否か。自殺者や、親のせいで人生狂ったと嘆く人間に、そんな想いを汲み取ってもらえるだろうか?
そしてそれが汲み取ってもらえない場合、寧ろそういった種の呼びかけは最悪のケースを呼ぶことになりかねない。
そういった心に余裕が無い人間は、それを「そのまま」受け取り、例えば自殺者ならば「俺は死んでさえも迷惑なのか。俺は死ぬことすらできないのか?俺はどうすればいいんだ?」と尚更錯乱するだけであろう。親のせいで人生狂ったと嘆く人間ならば、「じゃあ私が悪いのか?私は何もしていないのに」と益々自己を責め苦悩するばかりであろう。その言葉をかけた人たちは、おそらくは優しさゆえに、当人を救ってやろうというつもりゆえにその種の言葉を吐いているというところが皮肉で切ない。もう正常でない彼らは、優しさゆえに気持ちを汲み取るなんて事はできず、優しさゆえに自己を責めるほうへと進むだけである。お互い優しさが空回りし最悪の結果を呼びかねない。それは皮肉で悲しすぎる出来事だ。
そんな伝わるかどうか分からない事を、ある種正常でない者に伝わってくれと期待してはいけない。相手にはそのまま伝わると考えるべし。そう考えたら、とてもじゃないが自殺者に対し「お前が死ぬと皆その後始末で迷惑だからやめろ」なんて事は言えないだろう。苦悩している人間に、「親のせいじゃなくてお前の責任だ」などと安易に言えないだろう。優しさのつもりなら、それは大間違いだから、今すぐ止めた方がいい。(優しさじゃなくもともと傷つけようとして言っているよという人は論外である)
それよりも、変に当人の為にとか考えるよりも、そのままズバリ質問に答えてしまえばいいのである。
「俺の責任なのか?」
「いや、依然として、親の責任です」と。
20歳超えようが超えまいが親側の責任が消える訳もない。そんな甘いものではない。
虐待しておいて、20過ぎたからチャラね、なんて、いくわけもないのである。過ぎようが過ぎまいが、依然として責任は付き纏っている。「20過ぎたら自己責任だ」と言っている人間は、何よりも、「その親たちの責任をチャラにしてしまっている」事に気付くべきである。
親の責任だ。親のせいだ。それでいいじゃないか?無理に自分の責任にする必要などない。
動くのはそこからである。親のせいだけど、でもどうしようもねえから俺が今から何とかするしかない。あいつらのせいで私はこんなねじくれた性格になったけど、それが嫌だから、治そう。それでいいのである。無理に、「俺・私の責任だから、自分でなんとかしなくちゃ」じゃなくていい。理不尽に振ってきた親からのある種の暴力だ、でもこの親たちはそれを変えられないから、自分は変わりたいから、じゃあ自分で変わるっきゃない。それでいいのである。
無理に自分の責任にしたところで、前に動けるどころか、その責任の重圧に押しつぶされ動けなくなるだけである。
空き巣に入られたのを、「防犯カメラをつけていなかった自分のせいだ」と責め続けるより、「空き巣の野郎。許せん。しかしとりあえず警察に届け、当面の金をなんとかして、部屋を片付けなければ」と動いた方がよいのである。
極論を言えば、恨んで済むならいくらでも他人を恨めばよいのだと俺は思う。ただし犯罪行為はしちゃいけない。自分の心の平穏の為恨むだけなら寧ろ恨んでしまえばよいのである。それはもしかしたら見当違いの恨みもあるかもしれないがこの際それでもいい。なんでもかんでも「自分が悪いんだ」「私のせいだ」そう思いこんだり他人からやたらと「お前にだって非がある」「お前のせいなんじゃないのか」と言われるのはもう端から見ているのもごめんである。そんな事して何になるというのだろうか。そんなものは犯罪行為を行っておきながらしらばっくれる人間に対してだけで十分である。空き巣に入られた人間にいちいち「鍵を閉めなかったお前が悪い」とか言うのもうんざりだ。空き巣が悪い!親が悪い!依然として、どこまでも。でも、そこからどう前へ進むかは、また別の話なのである。それだけの話なのである。