はてなキーワード: 別コミとは
成功したものだけで、コミュニティを形成しれていることを最近よく感じる。
アメリカでは顕著なようだが、日本でもそれを実感する機会が増えてきた。
ソーシャルネットワーク、スマートフォンとここ最近コミュニティ形成における環境が大きく変化した。
昔から大学、そして会社と階層別コミュニティはあったが、コミュニティ形成がより視覚化された。
昔一緒に情報交換して切磋琢磨した仲間も、勝ち上がれば勝ち上がったものでまたコミュニティを形成し、敗れ去ったものの声を聴かなくなり遠ざけるようになった。
敗れ去った側の自分としては、こうやって人は社会的に死んでいき、生きながらに亡霊となるのだと思う。
死んだ者の声はもう生者には聞こえない。
死んだ者には、条件の悪い住環境、労働環境、よりモラルの低いコミュニティが待っている。
日本はまだましだが、格差が進めばますます死者の環境は悪化するだろう。
まるで、天国と地獄のようだ。
成功したものだけで、コミュニティを形成しれていることを最近よく感じる。
アメリカでは顕著なようだが、日本でもそれを実感する機会が増えてきた。
ソーシャルネットワーク、スマートフォンとここ最近コミュニティ形成における環境が大きく変化した。
昔から大学、そして会社と階層別コミュニティはあったが、コミュニティ形成がより視覚化された。
昔一緒に情報交換して切磋琢磨した仲間も、勝ち上がれば勝ち上がったものでまたコミュニティを形成し、敗れ去ったものの声を聴かなくなり遠ざけるようになった。
敗れ去った側の自分としては、こうやって人は社会的に死んでいき、生きながらに亡霊となるのだと思う。
死んだ者の声はもう生者には聞こえない。
死んだ者には、条件の悪い住環境、労働環境、よりモラルの低いコミュニティが待っている。
日本はまだましだが、格差が進めばますます死者の環境は悪化するだろう。
まるで、天国と地獄のようだ。
http://anond.hatelabo.jp/20100425122119
ちょっと脱線するけれど、Twitterだって海外のユーザーをフォローすれば海外と繋がることができる。
でもそれが簡単で無いのは、TLの上で日本語ユーザーと外国語ユーザーとは本来は別コミュニティとして分ける必要があるのに、Twitterの性質としてそれができていないからである。
たとえば、日常生活でも、会社とプライベートとではコミュニティが分かれる。プライベートでも、家族、同級生、サークル活動などで、コミュニティは自然と分かれるものだ。
それがTwitterのTLではごちゃ混ぜになってしまう。
List機能を使えば可能なのかな。そういう風にList機能をコミュニティの分離に使っている人いる?
まあ、他にもTwitterが解決しないといけない問題はある。
日本語で書いたつぶやきは日本のコミュニティにしか伝わらない。外国語で書いたつぶやきは海外のユーザーにしか伝わらない。
蒼井そらのTwitterで、彼女が日本語と英語とを重ねてつぶやいていたのを見て、これはTwitterのグローバル的な面を意識した行動として素晴らしいと思ったのだけれど、140文字の中でそれをやるのは大変だろう。
機能として、どのコミュニティを意識したつぶやきなのかを表明する方法が必要なのだと思う。
英語と日本語の両方のコミュニティに所属しているユーザーがいるとして、日本のコミュニティに彼の英語のつぶやきを見られた時「いきなり何を書いているだこいつは」と思われないためのものが必要だ。
日本語コミュニティだけの所属だとしても、コミュニティ間の距離が遠いほどこの問題は大きくなると思う。同じ言葉でもコミュニティによって意味が全く違うなんて場合よくあると思うのだけれど、そういう場合は配慮しないといけないわけで。
まあ、こういう問題については、アカウントを分けてしまうという方法で対応してるユーザーも多いのではないかと思うが。
インターネットが一般的でなかった時代、ネットユーザーは「キーボードが打てる」「文章を読むor書くのが好き」「自分をアピールするのが好き」「新しい技術や情報が好き」といったような比較的インテリジェンスが高い、いわゆる似たもの同士ばかりが参加していた。
察する察しない論争がちょっと盛んだったけど、自分はなんでも口に出すタイプの女だ。察してもらうのを待っているのはまだるっこしいし、やっぱり自分の意図を伝えるなら口に出してハッキリ言う方がいい。
しかし昔から私は自分の要望をハッキリ口に出すタイプだったというわけではなかった。きっかけとなったひとつの事件がある。あれは今から15年前…私が高校生の頃、いわゆるバナナフィッシュ事件である。
私は昔から隠れオタクで、中学にあがった頃から別コミを読んでいてバナナフィッシュという(少女漫画にしては見た目が地味な)漫画を愛読していた。その日もいつもどおり、本は買えないにもかかわらず書店に通っていた。本棚を「これもあれも面白そうだなあ」と眺めているだけで満足だった。そんな私の横で、店員さんがマジックで張り紙を書き始めた。ポップというほどではないが、○○最新刊発売中とかそういうもの。ちらっと見るとどうも売れ残りのカレンダーの裏側を使ってるみたい。ビリビリと破るその手元を見ると……ア、アッシュ!?
そう、それは私が欲しいなあと思いつつ買うことができなかったバナナフィッシュのカレンダーだったのだ!
私は隠れオタクで、自分のオタクな部分があまり好きではなかったため、書店にわざわざ予約注文しなければならないカレンダーなどというものを手に入れることはできなかった。でも本当は大きな絵柄のカレンダーには憧れがあった。しかもバナナフィッシュは絵柄として地味だからなのか、当時のファンの年齢層が高かったせいなのかあまりカレンダーとかにはならなかった(カラーページも極端に少なかった気がする)のでとてもレアなカレンダーだった。
そ、それが張り紙に! ああああアッシュの顔が真っ二つになってるぅぅぅぅ!
私の心は千々に乱れた。このままではすべてのカレンダーが破かれて張り紙にされてしまう。ああああもったいない! 今なら! 今ならまだ間に合う!
私は勇気をふりしぼって店員さんに声をかけた。
「あああああのっ、その、それ…欲しいんですけど売ってくれませんか?」
店員さんは怪訝な顔して「これですか?」と言った後「いらないものなので別にいいですよ、どうぞ」といって無造作に輪ゴムで丸めて私にくれた。ただで。あまりのあっけなさにポカーンとしたのを覚えている。冷静になって考えてみれば店員さんにとっては売れ残りの何の価値もないカレンダーで、別にその裏を使わなければ張り紙が書けないというものでもない。
でもそのとき私は、自分にとっての価値と、他人にとっての価値がイコールではないことや、だからこそ交渉や要望を伝えることで自分の願望を満たせるということを身をもって実感してものすごく感動していた。だってタダで! カレンダーがもらえるなんて! すごいすごい! もっと早く言ってみればもう一人くらいアッシュを救えたかもしれなかったなあ!
この出来事があってから、私はできるだけ自分の要望を口に出すようになった。意外と他人にとってはたいしたことではない場合も多いので、望みをかなえてくれることが多い。嫌なら断られるだけだしね。世の中言ったもん勝ちですよ!