はてなキーワード: アカデミズムとは
3は本当に関心のない奴がそもそも南京事件にコミットするのはおかしいので
bluefoxやApemanあたりがいう「カジュアル否定論」者がそれに該当すると思う
はてブでそれっぽいコメントを書いている人に注目すれば分かると思うけど、3の人間はたいがい肯定派だよ。単純な話で、労力を割いて真実を探求しようなんて思っていないから、この問題に関してはとりあえず学校で習った通りの認識を持っておこう、と判断しているわけ。とはいえ、自分が消極的な立場だと知っているから、否定論者をことさら「啓蒙」しようとはしないけどね。
3の人間はこの問題にコミットしているわけじゃなくて、普段チェックしているはてブやRSSフィードに出てきた話題を受動的に一読して、「こういう話題もあるんだな」といつもの習慣ではてブやここに一言感想を書いているだけだろう(少なくとも俺はそんな感じ)。だから、コミットするのはおかしい
という前提がそもそも当てはまらない。
====(以下、蛇足)====
周知の通り、はてな界隈には(俺を含め)情報技術者とか理系大学生が結構いるのだけど(アーリーアダプタ(笑)だからね)、南京事件に関する議論に対して「どっちもどっちだ」という反応を顕著に見せているのは恐らくこの層だろう。自然科学的方法論に毒された人間がこの問題を眺めると、そういう結論にならざるを得ないんだよ。自然科学では手続きの妥当性によって客観的な正当性が担保されるから、相手の人格否定に重きを置くような論者同士の意見には優劣を付けられない。主張の内容レベル以前の問題で。だから、「どっちもどっち」は「主張の内容のレベルが同程度だ」という意味じゃなくて、単純に「手続きのレベルが同程度だ」という意味でしかない。
※例えば似非科学問題の場合、きちんとしたバックグラウンドを持つ似非科学批判論者は似非科学信者を「知識がない」と判断することはあるが、だからといって「人間として劣っている」というように扱うことは決してない(しばしばおかしなシンパが現われて話をかき回すから話がややこしくなるけど。。。まあ、今回の件だって、「きちんとした知識を持つ反歴史修正主義者(=はしげた氏)」の議論に便乗した「おかしなシンパ(=claw氏)」の出現が原因で混乱したんだろう。claw氏の偽悪的(?)なエントリがなければそもそも3の人間は反応したりしなかった)。
要は、否定論者vs肯定論者の構図が政治信条や歴史知識の衝突になるのに対して、無関心層vs肯定論者の構図は「手続きの妥当性」と「主張の内容」のどちらを最重要視するかという問題でしかないから、まったく議論のありようが違う(し、そもそも議論の必要がないと思う)。
歴史問題に自然科学の視点を持ち込む愚とか、日本人でありながら過去の大戦のことを真摯に考察しない愚かさとか、3の人間にもツッコミどころは多いと思うけど、少なくとも否定論者ではない(≠肯定論者である)以上、1や2の人間と同じ方法で「啓蒙」を図っても無益だということは理解してもらえると思う。まして、「良く知らないなら発言するな」のような難癖が登場してしまうと「ああ、自分に賛同しない人間は《敵》だと感じる、世の中に白か黒しかないナイーブな人種なんだな」と考えざるを得なくなってしまうよ。。。
上では、肯定/否定の意見を主張する人々を「―論者」、肯定/否定の考えを持っている人(主張しない人を含む)を「―派」と表現しました。肯定論者と肯定派の区別がちょっと伝わりにくいと思ったので補足。
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080103/p1
このエントリとか、手続きの妥当性を最重要視するタイプの人物の存在に無自覚なせいでぐだぐだになっている論説の典型だな。。。と思った。
いろいろな反応ありがとう。↑で「理系」と表現した部分は「アカデミズム」のほうがより相応しいかな、と思った。あるいは、潔癖なおたく(ギーク)。いや、それだと格好つけすぎかも。身も蓋もない言い方をしてしまえばd:id:Apeman:20080104:p3で指摘されたように単に他人事としてながめてるから
で済むんだから。興味を持った事象(の興味を持った側面)の分析・探究には力を注ぐけど、それ以外の部分、特に価値判断に類する事柄にはまるで無頓着な態度。そうした姿勢がときに不適切な結果を利してしまうということは原子爆弾の製造に関するアインシュタインの功績を考えるまでもなく明らかだけど、興味がないんだから仕方がない。
……とか書くと「お前みたいに知性のないヤツがアカデミズムを名乗るなど片腹痛い」なんて言われそうだけど。そりゃあんたにとっての「知性」と俺にとっての「知性」の意味が違うだけだよ(笑)
これじゃないかな。
もっといえば真のベンチャーではなく、ひと段落したベンチャーかな。
あと、番外で提案できるのは、
・野に放つ。
かな。
素浪人になって仕官先をさがすもよし、同士を集めて勃興するもよし。
この時代なら本人が優秀なら野に放つのが一番なきがするな。
いろんな人とあってパートナーを探したり。
本人がモチベーションもってやれることをやるのが一番力を発揮できるからね。
優秀であればあるほどいまはどこにでも位置取りできる遊撃手的なスタンスが活躍できるように思うよ。
以下、偏見にまじった自分の時代感。
→ 今は待遇としては地方公務員の方がいいし、これから官僚になると、
今後20年一番悪いタイミングで苦渋を味わうことになるかもしれない。
→ 悪くはないが、国内で取得する一般博士号ほど食えないものはない。
現状を説明し、それでも本人が望んだ場合のみで薦めてやらせるものではない。
→ 現段階においては大企業は今後特定分野を除いて分社化していく方向。
特定分野においても将来的にはセグメントが分けられる可能性が高く総合職としては魅力はあまりない。
優秀な人材であればあるほどアイドリング期間が長く感じられて途中で脱落したら身もふたもない。
→ 士業でくっていけるのはごくわずか。弁護士のような資格をとってものき弁などでやっていくしかない。
結局は本人の活動以上には大きくできないので、
会計士+中小企業診断士などのあわせ技で組織化して大きく活動していくよりない。
現段階で先陣達が切り開いている分野であり、10年後は明るいかもしれないが、
ひとつの資格で一生食っていける時代ではなくなった。
全体的な系統と組織としての系統を混同しないほうがよいとおもう。
→ 一緒に興すならともかく後のりで「就職」するという考え方ではままならないとおもう。
本人がやりたいのであれば留めはしないが蓄えや資産は別に必要。
とりあえず起業してみる
→ ビジネス経験がまったくないのは問題かもしれない。(実家が商売をしているなど素養があれば別)
どのように優秀なのかわからないのでコメントできない。
やることも決まっておらず、資金もないのであれば会社を無理におこすこともない。
どうでもいい茶々入れだが
はその通り本人が変わったって気がするが、
は不可避の流れっつーか、運のいい極々少数を除いたその他大勢の行き着くところはそこだよなって現実があるんで、なんともいえないもんがあるなー。こう競争率が高いと研究者になるにもある種の器用さ(研究費とるための演出のうまさやアカデミズム外と付き合える社会性)が必要なんで、学問ばっかりのタイプの方が崩れになる率高いよな。世間イメージに反して、学問ばっかりやる奴は残らない世界だよな。
いや、まあそうなんだけどさ、
でも学部生が研究することそれ自体は社会になんの役にも立たないものが多いわけじゃん?
そこでアカデミズムがどうこう言ってがんばってたやつが
アカデミズムとまったく関係のない企業に就職して実務も大してできないし学問もできないしで
つまり東大に入学したとたん学問を究めるつもりで頑張る必要があるというのなら、
東大に入学した連中が全員博士後期課程まで進学するくらいの意気込みがないと、
なんか無駄だと思うんだよな。
修士卒とかで企業に就職するなら、その後どういう仕事をするかまで考えて生きていく必要があるのは当然で、
そのために学問ばっかりやってるわけにはいかないこともあるってことだと思う。
というのを言い訳にいて遊んでばかりの奴も多いのはムカつくけどな。
でもまあ、20代後半になって非モテとかで悩んだりしないように、できることはちゃんとやっとくほうがいいよ。後悔するぞ。
軽視される程度の役割しか果たせてないのかもよ。
君が頑張って無駄を省いてほしい。
確実に有用な成果が出るなら企業がやればいい。
でもそれじゃ誰もやらない分野が出る。
それが結局は実用科学の首を絞める。
ちょっとした素敵な勘違いというか手違いという神の導きにより、非コミュを自認する方と物凄くおいしい食事をしてきた。すごく良い経験になった。神と、先方に感謝。
その方は基本的に数学が得意な脳の持ち主で、本もたくさん読んでいて、専攻は社会学系、はっきり言って俺よりずっと頭がいい。仕事はコーダー。本人はIT土方って言ってたw。
分析力は俺よりずっと高いし、速いはず。でもその次の段階がうまくいかないらしい。そこで精神的な平常を失いがちなのが人間の自然な姿なのだが、その方はそこを武道を通して身につけたスキルを応用して克服したようだ。頭がいい人はどんどん汎用する。しかしcommunicationだけは別のようだ。「文章が書けるのにcommunicationができない、聡明なエントリは書けるのに脊椎コメントが書けない、脳内メモリにエントリ要素を溜めて加工して文字に落とし込むことはできても、思索同時筆記ができない。」こういう感じなのだと思う。エッサさんのブログの書き方と近いのだと思う。
最近強く思うことなのだが、文系は馬鹿ばっかりだ。馬鹿というか誠実さが足りない。これは言葉が本来的に持つ欺瞞というか不誠実さの結果であろう。しかしそれを誠実に分析せず、経済的利益構造確保のためにアカデミズムの中に居場所を確保し、文壇や論壇といった経済圏というかマーケットを作り、維持するために、権威の構築のための研究ばかりしているというのが、文系の歴史の一面である。非コミュの原因の根底には間違いなくこの問題があり、そしてそれを小説という方法のなかに取り込んだのが村上春樹(の一面)であるのだと思う。だから文壇や批評家の嫌悪というか憎悪は当然なんだよ。馬鹿だから自覚無いだろうけどな。
理系の皆さんにこれだけは覚えておいて欲しい。
あ、知ってるって?w。
でももっと確信を持って正面から馬鹿にしたほうがイイよ。文系の学問、ことに文学部、そして文学界の構成員というのは、文系の研究機関や大学や文壇や論壇に養ってもらうか、さもなければ生活保護か、という人間達の生存のためだけの活動である場合が多いという真実を白日の下に晒すことにより、理系の研究の予算は増えるはず。雇用も増えるはず。そしてこの世界を豊かに発展させるはず。
文学部や文壇なんてなくても詩人は詩を書くだろう。しかし医学部が無ければ医師は育たないし、研究と教育が無ければテクノロジーは退化して死ぬ。テクノロジーが世界を、芸術を、文学をリードするという事実は、この星の文化の歴史が証明してるはず。
追記
要するに文学部や文壇や論壇や批評家と言っても良いのかもしれない。経済学は文系か理系か?みたいなね
でも言葉にとって最も重要なことは定義の正誤や一貫性や論理的整合性ではなくインパクトですよ
これ言葉の本質だから覚えておくと良い
http://anond.hatelabo.jp/20070422153630
追記
http://anond.hatelabo.jp/20070422160116
その通りなので、「歴史学」はこのエントリでいう「文系」から除外します。
追記
無駄な文系研究機関や文壇論壇系ジャーナリストのマーケットを潰したら
参考になるテーマとして
「闘魂とは」
というのがあるね。
取り上げている題材、着眼点が面白い本なのは確かなのだけれど、第二部においてメタフィクション論を展開するにあたって、既存の批評理論をほとんど参照していないのが気になってしょうがない。『ファウスト』に掲載された上遠野浩平論で佐藤俊樹がドイツ・ロマン主義文学を東の議論に接続していたはずだし、東のひとつのホームグラウンドであるSFにおいても、平行世界論や可能世界論については繊細な議論が行われてきたのではなかったのか。新しい概念を創造するのが哲学者の仕事なのだ、と東はどこかで発言していたように思うが、既存の理論との格闘がないままにいきなり概念が提出されるのは、どうにも知的緊張感を欠いているように感じられてしまう(その意味で、第一部の大塚、新城、稲葉らの緒論との接合までは面白いのだけれど)。また東の昔の発言を参照するが、東は「アカデミズム/ジャーナリズム」という対比を日本の論壇を分析する際に言説に持ち込んでいて、その中間で仕事をすることが大切だ、と以前どこかで述べていた。その対比をそのまま用いるとするなら、ちょっと今の東は「ジャーナリズム」に近寄りすぎてはいないか。在野の一ファンとしてはちょっと残念だ。とはいえ、我ながら無責任な期待だと思うので、こうして匿名ダイアリーに書いておく。お目汚し失礼。