「アカデミズム」を含む日記 RSS

はてなキーワード: アカデミズムとは

2008-03-22

http://anond.hatelabo.jp/20080321160930

大学以降の勉強(難関資格公務員試験は除く)なんてオタク趣味と一緒。

ある種の人々には受け入れられるが大多数の人にはキモイと拒否される。

そこで、「勉強VSコミュニケーション能力」のような不毛な優越感ゲームに陥ったり

勘違いしてアカデミズムの道に特攻かけるのと比べたら、

ガクモンやキョウヨウを陰に隠れてネタとして消費するほうが遥かに健全

2008-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20080310225815

リベンジならコミュ力つけて就職リベンジしたほうがよいと思う。

アカデミズム世界では、秀才が崩れることはあっても凡才が伸びることは期待できない。

2008-01-14

http://anond.hatelabo.jp/20080114151746

うん、ほんならわかる。まあ祭りもほどほどにw

肯定派の人も傍から見てると祭りなのだけどね。あれだけ熱心なら、それこそ南京近郊の歴史でもして独自の視点をウェブ発表したら、と思うけど、それはしないんだな。あくまで論争のラインから外れない。残念だねえ。エネルギーが。

もう少したてばそういう人が出てくるのかな。アカデミズムに縛られない研究者が。まあレスト関係ないこっちの願望。

2008-01-04

http://anond.hatelabo.jp/20080103101657

3は本当に関心のない奴がそもそも南京事件コミットするのはおかしいので

bluefoxやApemanあたりがいう「カジュアル否定論」者がそれに該当すると思う

はてブでそれっぽいコメントを書いている人に注目すれば分かると思うけど、3の人間はたいがい肯定派だよ。単純な話で、労力を割いて真実を探求しようなんて思っていないから、この問題に関してはとりあえず学校で習った通りの認識を持っておこう、と判断しているわけ。とはいえ、自分が消極的な立場だと知っているから、否定論者をことさら「啓蒙」しようとはしないけどね。

3の人間はこの問題にコミットしているわけじゃなくて、普段チェックしているはてブRSSフィードに出てきた話題を受動的に一読して、「こういう話題もあるんだな」といつもの習慣ではてブやここに一言感想を書いているだけだろう(少なくとも俺はそんな感じ)。だから、コミットするのはおかしいという前提がそもそも当てはまらない。

====(以下、蛇足)====

周知の通り、はてな界隈には(俺を含め)情報技術者とか理系大学生が結構いるのだけど(アーリーアダプタ(笑)だからね)、南京事件に関する議論に対して「どっちもどっちだ」という反応を顕著に見せているのは恐らくこの層だろう。自然科学的方法論に毒された人間がこの問題を眺めると、そういう結論にならざるを得ないんだよ。自然科学では手続きの妥当性によって客観的な正当性が担保されるから、相手の人格否定に重きを置くような論者同士の意見には優劣を付けられない。主張の内容レベル以前の問題で。だから、「どっちもどっち」は「主張の内容のレベルが同程度だ」という意味じゃなくて、単純に「手続きのレベルが同程度だ」という意味でしかない。

※例えば似非科学問題の場合、きちんとしたバックグラウンドを持つ似非科学批判論者は似非科学信者を「知識がない」と判断することはあるが、だからといって「人間として劣っている」というように扱うことは決してない(しばしばおかしなシンパが現われて話をかき回すから話がややこしくなるけど。。。まあ、今回の件だって、「きちんとした知識を持つ反歴史修正主義者(=はしげた氏)」の議論に便乗した「おかしなシンパ(=claw氏)」の出現が原因で混乱したんだろう。claw氏の偽悪的(?)なエントリがなければそもそも3の人間は反応したりしなかった)。

要は、否定論者vs肯定論者の構図が政治信条や歴史知識の衝突になるのに対して、無関心層vs肯定論者の構図は「手続きの妥当性」と「主張の内容」のどちらを最重要視するかという問題でしかないから、まったく議論のありようが違う(し、そもそも議論の必要がないと思う)。

歴史問題に自然科学の視点を持ち込む愚とか、日本人でありながら過去大戦のことを真摯に考察しない愚かさとか、3の人間にもツッコミどころは多いと思うけど、少なくとも否定論者ではない(≠肯定論者である)以上、1や2の人間と同じ方法で「啓蒙」を図っても無益だということは理解してもらえると思う。まして、「良く知らないなら発言するな」のような難癖が登場してしまうと「ああ、自分に賛同しない人間は《敵》だと感じる、世の中に白か黒しかないナイーブな人種なんだな」と考えざるを得なくなってしまうよ。。。

補足

上では、肯定/否定の意見を主張する人々を「―論者」、肯定/否定の考えを持っている人(主張しない人を含む)を「―派」と表現しました。肯定論者と肯定派の区別がちょっと伝わりにくいと思ったので補足。

補足

http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080103/p1

このエントリとか、手続きの妥当性を最重要視するタイプの人物の存在に無自覚なせいでぐだぐだになっている論説の典型だな。。。と思った。

追記

いろいろな反応ありがとう。↑で「理系」と表現した部分は「アカデミズム」のほうがより相応しいかな、と思った。あるいは、潔癖なおたくギーク)。いや、それだと格好つけすぎかも。身も蓋もない言い方をしてしまえばd:id:Apeman:20080104:p3で指摘されたように単に他人事としてながめてるからで済むんだから。興味を持った事象(の興味を持った側面)の分析・探究には力を注ぐけど、それ以外の部分、特に価値判断に類する事柄にはまるで無頓着な態度。そうした姿勢がときに不適切な結果を利してしまうということは原子爆弾の製造に関するアインシュタインの功績を考えるまでもなく明らかだけど、興味がないんだから仕方がない。

……とか書くと「お前みたいに知性のないヤツがアカデミズムを名乗るなど片腹痛い」なんて言われそうだけど。そりゃあんたにとっての「知性」と俺にとっての「知性」の意味が違うだけだよ(笑)

2007-12-24

社会学ってどこにあんだよ

よく自分のあんま知らない領域のアカデミズム世間を

知るのに、2chの専門板を見たりするのだが、

その中で「社会学板」は宮台スレばっか。

しかもどいつもこいつも宮台をインチキ呼ばわり。

いやでもお前らこの板の現実は何なんだよw

どこにあんだよ、社会学

2007-11-27

http://anond.hatelabo.jp/20071127121328

博士号を取得し、アカデミズム世界に進む

これはどう考えても安定路線ではないし、失敗のリスクが高すぎる。

http://anond.hatelabo.jp/20071127121328

将来有望でエッジの効いたベンチャー企業就職する

これじゃないかな。

もっといえば真のベンチャーではなく、ひと段落したベンチャーかな。

成功体験後の。そこでノウハウ積んで独立がいいとおもうよ。

あと、番外で提案できるのは、

・野に放つ。

かな。

浪人になって仕官先をさがすもよし、同士を集めて勃興するもよし。

この時代なら本人が優秀なら野に放つのが一番なきがするな。

いろんな人とあってパートナーを探したり。

本人がモチベーションもってやれることをやるのが一番力を発揮できるからね。

優秀であればあるほどいまはどこにでも位置取りできる遊撃手的なスタンスが活躍できるように思うよ。

以下、偏見にまじった自分の時代感。

国家公務員一種に合格し、公僕となる

→ 今は待遇としては地方公務員の方がいいし、これから官僚になると、

今後20年一番悪いタイミングで苦渋を味わうことになるかもしれない。

博士号を取得し、アカデミズム世界に進む

→ 悪くはないが、国内で取得する一般博士号ほど食えないものはない。

現状を説明し、それでも本人が望んだ場合のみで薦めてやらせるものではない。

一流大企業総合職または研究・開発職に就く

→ 現段階においては大企業は今後特定分野を除いて分社化していく方向。

特定分野においても将来的にはセグメントが分けられる可能性が高く総合職としては魅力はあまりない。

研究職につくのなら大企業のほうがよいが、

優秀な人材であればあるほどアイドリング期間が長く感じられて途中で脱落したら身もふたもない。

高度な資格試験合格し、プロフェッショナルとなる

→ 士業でくっていけるのはごくわずか。弁護士のような資格をとってものき弁などでやっていくしかない。

結局は本人の活動以上には大きくできないので、

会計士+中小企業診断士などのあわせ技で組織化して大きく活動していくよりない。

現段階で先陣達が切り開いている分野であり、10年後は明るいかもしれないが、

ひとつの資格で一生食っていける時代ではなくなった。

外資系企業に入社し、高度専門職に就く

外資系も日系も結局はその組織の体質によるので、

全体的な系統と組織としての系統を混同しないほうがよいとおもう。

将来有望でエッジの効いたベンチャー企業就職する

→ 一緒に興すならともかく後のりで「就職」するという考え方ではままならないとおもう。

本人がやりたいのであれば留めはしないが蓄えや資産は別に必要。

とりあえず起業してみる

ビジネス経験がまったくないのは問題かもしれない。(実家が商売をしているなど素養があれば別)

どのように優秀なのかわからないのでコメントできない。

やることも決まっておらず、資金もないのであれば会社を無理におこすこともない。

浪人で十分だ。Neetになって放浪しながらビジネスシーズでも捜せばいいじゃない。

2007-11-25

http://anond.hatelabo.jp/20071125033227

どうでもいい茶々入れだが

そもそも人間はかわるもんでしょ。遊んでばかりいた奴が学問に目覚めることもあれば、

はその通り本人が変わったって気がするが、

研究者になりたくてがり勉で地方から来てたのが、いつのまにか中退してフリーターになってたり。

は不可避の流れっつーか、運のいい極々少数を除いたその他大勢の行き着くところはそこだよなって現実があるんで、なんともいえないもんがあるなー。こう競争率が高いと研究者になるにもある種の器用さ(研究費とるための演出のうまさやアカデミズム外と付き合える社会性)が必要なんで、学問ばっかりのタイプの方が崩れになる率高いよな。世間イメージに反して、学問ばっかりやる奴は残らない世界だよな。

anond:20071125033516

まぁどのみち出口でアカデミズムが評価されなければ、誰もマジメにやらんわな

大体、アカデミズム軽視はもう何十年も続いていることだろ?

http://anond.hatelabo.jp/20071125045026

恵まれた環境を勝ち取って、それを活用しないのは馬鹿だし、押しのけた他者にも失礼だ。

いや、まあそうなんだけどさ、

でも学部生が研究することそれ自体は社会になんの役にも立たないものが多いわけじゃん?

そこでアカデミズムがどうこう言ってがんばってたやつが

アカデミズムとまったく関係のない企業就職して実務も大してできないし学問もできないしで

無駄リソースを食いつぶしてるのを俺は結構見てきている。

つまり東大に入学したとたん学問を究めるつもりで頑張る必要があるというのなら、

東大に入学した連中が全員博士後期課程まで進学するくらいの意気込みがないと、

なんか無駄だと思うんだよな。

修士卒とかで企業就職するなら、その後どういう仕事をするかまで考えて生きていく必要があるのは当然で、

そのために学問ばっかりやってるわけにはいかないこともあるってことだと思う。

というのを言い訳にいて遊んでばかりの奴も多いのはムカつくけどな。

でもまあ、20代後半になって非モテとかで悩んだりしないように、できることはちゃんとやっとくほうがいいよ。後悔するぞ。

http://anond.hatelabo.jp/20071125031255

軽視される程度の役割しか果たせてないのかもよ。

それにどちらかというと企業アカデミズム軽視するより学者のほうがビジネスを軽視してたりしてないか?

http://anond.hatelabo.jp/20071125030426

むしろ、アカデミズム軽視は企業サイドに大きな原因がある。

学業に力を入れたような学生は嫌われる。

就職活動のときに強く感じたよ。

大学生企業の姿勢に適応しただけ。

2007-10-12

http://anond.hatelabo.jp/20071012133912

ああなるほど。たしかにそうだ。

ポピュリズムアカデミズムか、と問われたら、できるかぎりアカデミズムを選択したいものだけどね。

と、なると。

増田

当然そうだよね」って感じに思ってる人が多くて困る

http://anond.hatelabo.jp/20071012122354

つまり「『その傾向が当然、普通』って一元的にとらえられると、マイノリティーは戸惑う。もっと多様に」って言ってるのに

ってのは普通の考えだろ。それを責めるのは筋違い

http://anond.hatelabo.jp/20071012131144

普通普通なんだから、みんながそう思ってるんだから」って一元論を返すのは批判として成立しない、

というか身をもって批判の対象を例示している、という話になるのかな。

引用内強調は引用者による)

2007-06-26

http://anond.hatelabo.jp/20070625232747

わりと同意。本来のアカデミズムのあり方を考えたらそれで十分。大学なんて本当に自ら学びたいことがある人間だけがいけばいいのに、猫も杓子もとりあえず入っておけになっているのがおかしいんだよな。うちの高校の担任も卒業前に言ってたな、大学教授というものは自分の研究の方が大事で、別に学生を教えたいと思っているわけじゃないんだから、教えてもらおうと思っていたんじゃダメだ、と。今思うとほんと当たり前のこと言ってる。

やっぱ、学歴がうわべの箔付けになって、大学入学が一つのゴールみたいになってるのがダメなんだよなあ。

2007-04-24

[]ある種の文系アカデミズムの要職を得るために必要な能力

ちゃんとしてない学部でポストを得るために必要な能力

分析力や論文力<<<<コミュ力、政治力レイプスルー力

これ実際そうだろ?文系の定義に注意だけどな。ようするに「ちゃんとしてない学問」ね。

これってモラハラとか産みまくってるし、非コミュ問題の根源だし、税金や皆さんが我が子のために支払った学費の無駄遣いだし、なにより嘘八百のトンデモ学問ですって詐称してるんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20070422153416

2007-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20070422161145

君が頑張って無駄を省いてほしい。

でも、アカデミズム研究ってのは本質的に無駄を伴うんだよ。

確実に有用な成果が出るなら企業がやればいい。

でもそれじゃ誰もやらない分野が出る。

それが結局は実用科学の首を絞める。

たとえば形式論理なんて長らく無駄飯食いの哲学者の戯言だった

でもそこからプログラム言語概念が生まれた。

そういう厚みがなければ科学技術は行き詰まる。

[]非コミュを自認する方と会って思ったこと。

ちょっとした素敵な勘違いというか手違いという神の導きにより、非コミュを自認する方と物凄くおいしい食事をしてきた。すごく良い経験になった。神と、先方に感謝

その方は基本的に数学が得意な脳の持ち主で、本もたくさん読んでいて、専攻は社会学系、はっきり言って俺よりずっと頭がいい。仕事はコーダー。本人はIT土方って言ってたw。

分析力は俺よりずっと高いし、速いはず。でもその次の段階がうまくいかないらしい。そこで精神的な平常を失いがちなのが人間自然な姿なのだが、その方はそこを武道を通して身につけたスキルを応用して克服したようだ。頭がいい人はどんどん汎用する。しかしcommunicationだけは別のようだ。「文章が書けるのにcommunicationができない、聡明なエントリは書けるのに脊椎コメントが書けない、脳内メモリエントリ要素を溜めて加工して文字に落とし込むことはできても、思索同時筆記ができない。」こういう感じなのだと思う。エッサさんのブログの書き方と近いのだと思う。

最近強く思うことなのだが、文系馬鹿ばっかりだ。馬鹿というか誠実さが足りない。これは言葉が本来的に持つ欺瞞というか不誠実さの結果であろう。しかしそれを誠実に分析せず、経済的利益構造確保のためにアカデミズムの中に居場所を確保し、文壇や論壇といった経済圏というかマーケットを作り、維持するために、権威の構築のための研究ばかりしているというのが、文系歴史の一面である。非コミュ原因の根底には間違いなくこの問題があり、そしてそれを小説という方法のなかに取り込んだのが村上春樹(の一面)であるのだと思う。だから文壇批評家の嫌悪というか憎悪は当然なんだよ。馬鹿だから自覚無いだろうけどな。

理系の皆さんにこれだけは覚えておいて欲しい。

文系は基本的に馬鹿だ』

あ、知ってるって?w。

でももっと確信を持って正面から馬鹿にしたほうがイイよ。文系学問、ことに文学部、そして文学界の構成員というのは、文系研究機関や大学文壇や論壇に養ってもらうか、さもなければ生活保護か、という人間達の生存のためだけの活動である場合が多いという真実を白日の下に晒すことにより、理系研究予算は増えるはず。雇用も増えるはず。そしてこの世界を豊かに発展させるはず。

文学部文壇なんてなくても詩人は詩を書くだろう。しかし医学部が無ければ医師は育たないし、研究教育が無ければテクノロジーは退化して死ぬ。テクノロジーが世界を、芸術を、文学リードするという事実は、この星の文化の歴史が証明してるはず。

追記

文系=非論理文学

って感じで「文系」って言葉を使ってます。

要するに文学部文壇や論壇や批評家と言っても良いのかもしれない。経済学文系理系か?みたいなね

でも言葉にとって最も重要なことは定義の正誤や一貫性論理的整合性ではなくインパクトですよ

これ言葉の本質だから覚えておくと良い

http://anond.hatelabo.jp/20070422153630

追記

http://anond.hatelabo.jp/20070422160116

テクノロジー歴史を記録する「歴史学」ってのは立派な文系学問じゃないのかしらね。

その通りなので、「歴史学」はこのエントリでいう「文系」から除外します。

追記

無駄文系研究機関や文壇論壇系ジャーナリストマーケットを潰したら

結果的に無駄左翼サヨク原始人)も殲滅できると思うよ

参考になるテーマとして

闘魂とは」

というのがあるね。

2007-04-11

ゲーム的リアリズムの誕生』について

取り上げている題材、着眼点が面白い本なのは確かなのだけれど、第二部においてメタフィクション論を展開するにあたって、既存の批評理論ほとんど参照していないのが気になってしょうがない。『ファウスト』に掲載された上遠野浩平論で佐藤俊樹ドイツロマン主義文学を東の議論に接続していたはずだし、東のひとつのホームグラウンドであるSFにおいても、平行世界論や可能世界論については繊細な議論が行われてきたのではなかったのか。新しい概念を創造するのが哲学者仕事なのだ、と東はどこかで発言していたように思うが、既存の理論との格闘がないままにいきなり概念が提出されるのは、どうにも知的緊張感を欠いているように感じられてしまう(その意味で、第一部の大塚新城稲葉らの緒論との接合までは面白いのだけれど)。また東の昔の発言を参照するが、東は「アカデミズムジャーナリズム」という対比を日本の論壇を分析する際に言説に持ち込んでいて、その中間で仕事をすることが大切だ、と以前どこかで述べていた。その対比をそのまま用いるとするなら、ちょっと今の東は「ジャーナリズム」に近寄りすぎてはいないか。在野の一ファンとしてはちょっと残念だ。とはいえ、我ながら無責任な期待だと思うので、こうして匿名ダイアリーに書いておく。お目汚し失礼。

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