はてなキーワード: ルーズとは
状況がよくわからないんだけど、この人はあなたの元カノで、ここ数年は(別の彼氏がいるけどあなたとは)セフレとして付き合ってきたってこと?
しかも虚しいのに付き合うって、セフレ関係を望んだのはあなたのほう?
「セフレでもいいから付き合ってよ」と言ったあなたと付き合うのがあなたを見下してるってこと?
それとも虚しいのに数年あなたと恋人関係にあったことがあなたを見下してるってこと?
いずれにしても個人的に蔑まれるのと「男だから」蔑まれるのとは訳が違うよ。
あなたがそうだというわけではなくて、男女問わず卑劣だとか不誠実だとか感じた相手を蔑むこととか普通にあると思うけど。
たとえばお金にルーズで無駄遣いばかりしてて貯金がないとか嘆く人を見て「そりゃあんなにお金にルーズなら貯まるわけないだろ」と見下すのは差別とか全然関係ない。
「彼氏がいるのにセフレも作るなんて不誠実なやつだな」とあなたが見下すのも(相手をしてる自分のことを棚に上げてる感はあるけど)それだけなら差別的な考えじゃない。もしその枕詞に「女のくせに」がつくのなら差別的だけど。
セフレ扱いは虚しいよね。
自分が惨めになるだけだから、もしあなたが彼女に未練があるのだとしても別れた方がいいと思う。
馬鹿にされているようなので、現在静岡にすむ沖縄人の私に言わせていただきたい。
某有名会社へ打合せに行くと30分遅れなら早いもんです。こっちが会社に出向いてんのに何故出て来れないのか…
来るっていって来なかった日もありました。3時間遅れくらいになったこともあります。
結論。
沖縄人だからルーズなのではなく、ルーズな人がルーズなんです。
そんな私は5分前行動派です。
俺が高校生だったの10年位前だけど当時男でも女でも制服でスニーカー履いてるのって所謂ダサい奴らか、もしくは正統派から外れたお洒落を狙ってる奴だけだったよ。
マジマジ。大マジです。
増田の地域が分らないので何ともいえないけれど、5年前くらいはルーズ+スニーカー、タイツ+スニーカーは普通にありました。スタンダートな選択肢のひとつでしたよ。コンバースとか、プーマナイキバンズアディダス諸々の白スニーカーが主流だった記憶。今でもそんなに廃れてないんじゃないかなーとか思うわけですが、最近高校生見てないのではっきりとは分らないです。
ちょっとこの言葉だけに捉われ過ぎてないか?
俺も見ていて絵空事的世界観(SF部分についてじゃないよ)だなと思ったが、もうそれは前提条件なんだと思う。
そこまでの生々しさやディティールによる共感ってのは制作側も狙ってないと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20080109114836
当時は、膝下スカート(紺プリーツ限定。チェック柄でこれしてる人間を見たことない)+オーバーサイズのカーデに、ルーズ+スニーカーか
これマジ?
俺が高校生だったの10年位前だけど当時男でも女でも制服でスニーカー履いてるのって所謂ダサい奴らか、もしくは正統派から外れたお洒落を狙ってる奴だけだったよ。
時かけアニメ版映画の主人公真琴の着ていたのが紺ミニスカート+白ポロシャツ裾だし+紺ハイソックスだったんですが、上映始まってしばらく時代設定がわからんかったんです。
靴が気になった。ローファーだとちと微妙だが、スニーカーならありかと。でも私が女子高生だったのは5年前のことなのでもう古いか。
当時は、膝下スカート(紺プリーツ限定。チェック柄でこれしてる人間を見たことない)+オーバーサイズのカーデに、ルーズ+スニーカーか、黒タイツ+ローファー(踵は踏む)を合わせるスカート膝下連合と、膝上スカートにハイソ+ローファーのスカート膝上連合が二大派閥だった。ミニ+ルーズ+ローファーはちょっと姿を消しかけていたような記憶。
個人的には長いスカートに黒タイツ+スニーカーが好きだった(見るのも着るのも)。でもオーバーサイズが某お嬢学校発祥とは知らなかった。どっちかというと、お嬢な子はミニスカ(チェック柄)+ハイソ+ローファーだったので意外だ。
ちなみに神戸の話。
滋賀県が全国で最もスカート丈が短いという話を聞いたのだけど、これは今でもそうなんだろうか。去年旅行で行った時の体感では、確かに短い子が多いなあ、という印象だったけど(そもそも兵庫県がながすぎかもだが)。
真琴の制服姿ってたぶん普遍性があるというか、5年後10年後にみてもそんなに古くさく見えないと思います。
でもぜんぜん「今」じゃない。
「今」は地域性のほうが時代よりも大きい差なので、普遍的な「今」の制服、というのは難しいんじゃないかなーと思った。個人的な感覚でいうなら、アクティブな子という設定(見てないので知らん/しかし広告から受けるイメージは活動的)なら、紺ミニスカ+ポロシャツ裾だし+ハイソ、という組み合わせは結構合ってるんじゃないかと思う。足元どうだったっけ…
10月10日。
僕は学生だけど、
時間的な流れの感覚は多少狂ってる。
眠くなったら、何時だろうが気にせずに寝るし、
テキトーに起きてから1日が始まる生活をしている。
あとは卒業するだけ。
今年1年間はこんな生活がずっと続いていた。
さすがに、
この生活をずっとしているのは、社会に出てから大変だなと思ったので、
10月10日という日。
この日は、
友達との予定があることは覚えていたが、
どこで何時に待ち合わせしたとかは覚えてなかった。
15時の待ち合わせだったんだけど、
その時間を教えてくれたのが、待ち合わせ時間の1時間前に掛かってきた友達からの電話だった。
「ごめーん。18時からかと思ってたー。今すぐに急いで行くねー!」
言い訳を交えて急いで現地に向かった。
しかし、
待ち合わせ場所に着いたのは、
予定より1時間も遅れてだ。
「ごめーん。電車の乗り換えに失敗して遅れちゃったー。」
おかげで、友達と一緒に行くイベントには1時間ちょっと遅れることになった。
それから帰宅して、
PCを起動した。
mixiを開くとあるページに僕がアップした動画についてのコメントがあった。
「どうなのこの見せ方は?」という
僕の撮ったムービーのキャプションについての問題を指摘していた。
そのコメントに対して、
「ご指摘をありがとうございます。もっと対象者に近づいて撮影をしようと思ったんですけど、人が多くて。。。。
それと、私は素人なので、、、、。それと、写真用のデジタルカメラなので、、、。」
というような感じで僕は批判されたことに対して言い訳を考えていた。
でも、3度目の言い訳のときには
それを自分の中で留めて外には出さなかった。
「言い訳」っていうのは、
自分を守るために言葉を使っているだけで、
よくよく考えたら格好悪いことだなって、
悟った。
待ち合わせの時間を誤ったのも、
「確認不足」
なことだし。
電車の乗り換えに失敗したことも、
「準備不足」
なことだし。
ムービーの見せ方が悪いのも、
「クオリティの不足」
なことだし。
これは全て
日頃の僕の生活のルーズさから来ているものだし。
こんな感じに、
ここで、
言い訳とはさよなら。
確認。準備。クオリティ。
新しい自分にこんにちわ。
いつから?
今から。
ふむふむつまり
君は俺にエゴをぶつけた
俺は君にエゴをぶつけた
なら、結局、同じ事じゃん!
やっぱり問題ないね!
友達は本当にそうなのかなんて言われたって、友達本人がそう言ってるし現実そうしているからなあ。「そうはいっても心の中ではちがうかもしれない」なんてレベルの話なら、「そこまでこっちが読んであげてそこに責任を持つ必要なんてない」と思うけど。それはもう、言わない、自分の意思を示さない方がダメでしょ。示してない以上こっちはそう受け取るのは自然っしょ?いちいち「本当はこの友達はこういう携帯で連絡とってルーズに待ち合わせるのが嫌なのかもしれない…現状ではそうしてるし、別にそんなことないといってるけれどそうじゃないかもしれない」って勘繰らないとだめなの?実はそれ、全然友達の言う事信用してないよね。「この友達はそんな事も自分で言えないこどもかもしれない」って子供扱いしてるみたい。一人の人間として扱ってないじゃん。それにそれをするにしたってどうしてこっち側だけがそうしないといけないの?
なんか荒れてるので敢えてTB付けず。
俺もよく遅刻します。高校時代は余裕の3桁遅刻してました。大学は1分でも遅刻したら欠席扱いでしかも2回欠席したら即不可で留年になる教科を除いて、1限に間に合ったことは無かったと思います。友人との待ち合わせも良く遅刻します。しまくります。でもときには余りにも早く着き過ぎます(45分〜1時間以上)。要するに本当に時間にルーズなんだと思います。一方で、仕事で遅刻したことは皆無ではありませんがあまりありません。疲れが溜まってて目覚まし時計を止めたことにすら気付かないことは稀にありますが、それ以外では大体時間に間に合うように行きます(とは言ってもギリギリだけど)。
さて。
それでも遅刻はダメでしょう。なぜなら待ち合わせの時刻はルールであって、決める時点で同意したメンバーが守るべきものとして作るからです。ルールはどんな理由があろうとも、正当な民主主義に基づいて決められた場合は、民主主義国家の国民としては守らなければなりません(独裁国家の国民は民主主義に基づいて決められていない独裁ルールも守らなければいけない)。ルールを守れない、守りたくないのならばルール自体を変えるしかありませんが、ルールを破ることによって変えることは不可能なので、ルールに則って変えるしかありません。
ただし、ダメだということと、怒るかどうか、制裁を加えるかどうか、罰則を決めるかどうかはまた別の話で、待ち合わせする人達が、これもまた民主主義に基づいて決めるべき事柄であって、一概にはいえません。何分までなら許す、何分から何分までならジュースを奢るとか、そういうのを決めればいいと思います。罪と罰は別物、ということです。
マナーの視点から見てもやはり遅刻はダメです。禁止ですね。決めた約束を破るのはマナー違反です。これに加えて、やはり遅れる場合は約束時刻の前(遅くとも約束時刻5分後まで)に遅れる旨の連絡をするべきでしょう。待たされる側はいつまで待たされるのか分からなければ怒りを覚えますし、場合によっては何かあったのではないかと心配したりします。また、約束時刻だからとりあえず集合場所に来たけど、実はトイレを我慢していたり、喉が渇いたのを我慢していたりする場合もあります。この場合に、予め遅れることが分かっていれば、先に済ませておくことも出来ますので、やはり連絡はすべきです。
これはマナーですので、1人1人の良識に完全に依存するものですが。
まとめると以下の通りです。
別に、ルーズにならなくたっていいよ?きっちり時間通りにきてもいいよ。時間通りにくるななんていってないよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070704044400
液体より固体のほうが密度が大きいというのは常識で考えればおかしい、だって液体のほうが分子の結びつきがルーズじゃん、と言うわけで、水という物質は人間にとって、というか地球上の生命にとって最もありふれた物質であるにもかかわらず、その性質は例外的なんだよね。だから話がややこしくなる。水のそのややこしい性質によって地球上ではいろいろな生命の奇跡が起こったりしているわけだが、そのへんも含めて、ほんとに厄介なのはコロ助の科学質問箱あたりでわかった気になって「オレそんなこと小学校から知ってたZeeeeeee」とか鼻高々になっている連中のほうなんじゃないか(俺も含めてな)とか思ったりもするんだが、それはまた別のお話。
コップで話をすると、表面張力の考慮もあるからめんどくさい。子供相手なら実験させるのが一番なんだけど、大人相手じゃそうもいかない。
もっとも「氷が溶けると体積が増える」と言う人は、もはやなんとなくの感覚で言っているんであって、浮いている水面の部分は云々などというのは後付けの屁理屈。物理法則以前の「スーパーで買い物をする主婦の勘」的要素で話をしているから、北極と南極とか言ってもどだい無理。納得させたければ、よつばちゃんを説得させるつもりでいけ。
「容器に山盛りのかき氷は、溶けたらこぼれるか?」
「氷が溶けるってことはその分の『つめたさ』はどこにいくんだ? 地球上からなくなったりしないよな? だから、そのぶんで地球が冷えるから、じつは温暖化は起こらない。」
要するに自信満々で言えばなんでもいいよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070503140847
まぁなんだ、俺は社会人経験もいい加減ある一時期は採用面接とかもやってた野郎なんだがな……。
うら若い乙女に間違えられると照れちゃうぜ。
おまえさんにレスを返しているのは俺だけじゃないみたいなんで、1人で踊っちゃうと危険よ?
つか、男女に思考の傾向ってのはあるかもしれないけど、そんなの年代ごとにもってる思考の傾向なるもののギャップよりも小さいものだと思うな。ほんとに文理うんぬんと同レベルな話しだとおもうよ。
ジャマイカ人の例は極端すぎたか。
だけど、それを仕事の能力と断じるのは違うんじゃないかな。
言いたいのは「仕事」と書いてあるけど「御社の業務の話し」でしょ?ということだ。
「仕事」にも多様性があって、一般化するのはどうかなと思うよ。
だから君が「ボクのやってる仕事には女性は向かない」と思うのであれば、それはその通りだと思う。
能力の問題じゃないだろ。
校長先生の思考が男子校なのに、申し訳ばかり女性を入学させて本校は共学なのれす!と言い放っても不幸になるだけ。
まぁなんかよくわからないけど漁船がんばってくれ。
自分も昔から部屋の片付けとかうまくないし、時間を守ろうと思っても
どうしても遅れてしまったりすることがあるし、空気読めてないんじゃ
ないかと思うときがある。
最近、ADDじゃないかと疑い初めたんだけど、上に書いたみたいな
「ADDの症状は脳障害だから基本的には治らない」ってのが定説に
なってるらしい。
だから「多数派から見てルーズって生活ができないなら、多数に適応
らしい。
http://www33.ocn.ne.jp/~osamu/
あと、生活スキルについては、ここ、
http://f32.aaa.livedoor.jp/~lazy/
が参考になった。
まあでも、できるところからゆっくりでいいんじゃないかな。
とりあえず自分はそう思って、地道にじたばたやってるけど。
「ゲーム感覚で仕事ができる」--業務システムに魔法をかけたバリュープレス - CNET Japan
言語化されると微妙だけど、実際この中にいるとそんなに「管理されている」という感じはしない。
それぞれの案件・タスクの背後には必ずクライアントや別のスタッフがいるわけで、それを考えれば「システムに踊らされる」ということもない。
まあ、僕がルーズなだけなんだが。
システムはただそれだけで成立しているわけではなく、「どう使うか」によってその効能も大きく変わるわけでさ。
ちなみに、CNETは比較的好意的に書いてくれたけれど、この前のバージョンがAERAに紹介されたときは『ITロボット化する会社員』という紹介のされ方だったよ。
もう一生女なんて信じない関連。
pal-9999の日記 - セックスする友達というのなら文句は言わんがのはてブコメントとか読んでて納得いかなかったので書いてみた。
http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/personal.htm
腕を伸ばして届く範囲ぐらいが「親密なスペース」と呼ばれ、フツウは恋人や家族のような「触られても気にならないほど親密な関係」以外の人に入られると不愉快に感じる。
反対に、そのスペースに入るのを許すことは「あなたと私は親密な関係だ」と暗に認めていることにならないだろうか。相手に自分の「親密なスペース」に入ることを許すこと。これを仮に「親密フラグ」と呼ぶことにする。
一人暮らしの部屋なんて、大抵はワンルームでベッドがある。私はベッドがある部屋だって十分に「親密なスペース」だと感じる。学生時代、同性の友人の狭い部屋に招き入れられた時でさえ、私の気持ちは妙に高揚したものだ。友人の「親密フラグ」を感じ、自分が彼女にとって「その他大勢の友達とは違う特別な存在」と感じたからだ。
思春期に、同性をやたらに「親密なスペース」に入れたがる時期っていうのがある。
中学生ぐらいになると、遊ぶといえば誰かの部屋で、何するでもなくマンガ読んだりファミコンしたり延々とコイバナやエロ話をしていたものだ。このように青春の一ページでは、同性に「親密フラグ」を立てまくっては、大喧嘩したりいじめがあったりと何かしらの失敗がある。
しかしハイティーンになるにしたがって、その「親密なスペース」の開放を、グループではなく1対1の関係(多くは男女交際)に求めることが多くなってくる。(男の子の場合、体育会系クラブや会社など、いわゆる「ホモソーシャル」な組織への従属ってのが挟まることもある。)この「親密なスペース」を限られた人にのみ許す、という変化は、1対1の親密な関係を築けるようになる、というごく当たり前な精神的成長の一側面と捕らえることができる。
しかし中には、この精神的成長の途中でなぜか、「親密なスペース」をお互いに許しあってこそ友達だ、という考えに到る人たちがいる。
「友達なんだからいいだろう」と、非常識に部屋に居座ったり、ベタベタ触ってきたり、お金などごく個人的な部分でルーズに寄りかかってきたりする人たちを見ると、一人一人の「親密なスペース」には結構差があるんだなあ、と感じると共に、1対1の親密な人間関係を築く方法を身に付けきれていない「未熟さ」を思わずにはいられない。
惹かれる心というのは本能的な感情だと思う。自分の命を守る上で欠かせないと感じる人に出会ったとき、どうしようもなく人に惹かれるのだと思う。これは性別に関係のない感情なのではないか。相手を必要だと思い、もっと近づいて親密になりたいという願い。これは、最終的には肉体的接近を伴うものであろう。異性であれば子を成したいと願うし、同性であれば群れを成したいと願う。同性同士での性的行為に及ぶことも、人間だけではなく様々な種でしばしば見られることである。
人間であれば、そこに文化的な装飾が絡んでくる。
異性愛が推奨される文化の中では、同性同士で一定以上の肉体的接近に到ることは少ないだろうし、一夫一妻の文化の中では、一度に複数の異性に惹かれることを文化的にタブーとする。
つまり、「惹かれる」という非常に本能的な感情を、わたしたちは「恋愛」という文化で解釈することにより、日々の人間関係を営んでいるのではないかと思うのだ。
この「恋愛文化」の解釈モデルをドグマとして信望するあまり、本能的な振る舞いを許容できなくなっている人が多いと感じる。「好きになったらあなただけ。他の人にときめくなんてありえない」というドグマにとらわれすぎて、たまたまときめいちゃった時に「このときめきは本物」とかいって恋人や家族を捨ててどこかへ飛んでいってしまうようで、解釈に振り回されるというのはとても不自由そうなものだと感じる。
「親密なスペース」を許すこと、すなわち「親密フラグ」を立てることは、これから親密な人間関係を築こうとする二人にとって、非常に重要なコミュニケーションになる。お互いの「親密なスペース」に侵入しあうことなしには、性的関係に到ることはできない。翻って「親密フラグ」を立てるということは、やはり性的関係に到ることへの実質的な許可と捕らえられてしまっても、やはり仕方がないのではないだろうか。
腕に絡み付いてきたり、平気で男の子のワンルームに上がり込んだりする女の子は確かに存在する。彼女達の多くは、おそらく「親密なスペース」に入り込まれても拒まれない、つまり相手の「親密フラグ」をもぎ取ることが気持ち良いのではないかと思われる。彼女達はその関係に、必ずしもセクシャルな関係を求めない。中学生時代に同性の友人と共有したような、「親密で楽しいだけ」の関係を求めているように見える。そういう意味で、彼女達の「親密な関係」は未熟なものであると言えよう。しかしそれは逆に言うと、「親密な関係」に「セクシャルな関係」を求められることを苦痛に感じている、とも解釈できる。
しかし、これをやられるとたまらないのは男の方である。彼女達はどちらかと言うと「親密なスペース」に保守的な男の子を狙うことが多い(決して意図的ではない)。突然かわいくてやわらかくていいによいの女の子が「親密なスペース」に入り込んできて、とても楽しそうにする。普段立てたこともない自分の「親密フラグ」を、立たされっぱなしにされるわけだ。彼らは振り回されながら、遠まわしに打てども響かない彼女達の「親密フラグ」を信じ、耐え切れなくなってセクシャルな関係を求め、玉砕する。
「あなたがそんなことを考えていたなんて信じられない」「ずっと友達でいたかったのに」「もう二度とあのころには戻れないんだね」といったメガトンパンチに、再起不能になってしまう人もいる。中には、男は完全に同意のつもりであったのになぜかレイプで告訴されてしまう、と言うケースもあるだろう。(だからってレイプが正当化されるわけではないが)
こんなウサギさんばかりでは、純真な狸たちはますます恋愛に怯え、親密な関係を築けなくなる。
男女の友情は、成立するのだろうか。私は「成立する」と断言したい。
そのためには、まず、本能的に「惹かれる」と言う感情を認めることだ。世に「親友」と呼ばれる人たちの間には、どのような形であれ「惹かれあう」感情が存在するだろう。男女であれば、惹かれあった末の「親密な関係」は性的関係を惹起する。これは動物として仕方のないことだ。
友情に「親密フラグ」はいらない。「親密フラグ」がなくたって、十分に友情を育むことはできる。人生を語り合って、楽しい思い出を共有して、つまづいた時には手を差し伸べあうことができる。
「親密フラグ」さえたてなければ、男女の友情は成立する。すなわち、1対1の人間関係において「親密フラグ」をコントロールできる人間にのみ、男女の友情は許されるのだ。