「ベーカム」に人格的なものを見いだしているが、リバタリアニズム下における分配システム、それはルール、システムにすぎない。
だから政府側も(究極的には政府も不要になるだろうが)、高額納税者側も、「施しを与えてやってる」みたいな意識は存在しなくなる。享受する側も誰かの顔色を伺う意識はない。そもそも自分がどの立場にいるかの区別も曖昧になっていくだろう。生き方は多様で、社会に寄与する部分、助けられる部分は複雑に入り組んでいるのが自然であるはずだ。本当に自由な環境下で活動する人間は、もっぱら与えるだけ、もっぱら受け取るだけみたいな動き方をしない(健康である限りは)。
ルール至上主義だから、ルールに対してすべてのプレイヤーは対等であり、立場や状況の違いがあるだけだ。すべては移りゆくもので、そこに人間性的な驕り高ぶりを混ぜ込んでしまうような共産主義的な発想は厳格に排していかないといけない。自由主義のマインドを市民が理解した上で維持するは高度な教育が必要で、その練度を維持するのも課題ではある。