2021-08-28

家族の死をどこで受け入れるものなのか

祖父最後入院したときに、医者から、やろうと思えばいくらでも生命を維持することはできる、と言われた。

もちろん、限定的文脈での話であって文字通りの意味ではないだろうけど、ある面での事実だとは思う。

その後、他の3人の祖父母が他界するときに同じことを言った医者はいなかったけど、最初医者の言ったことは間違っていなかったと感じられた。

そんな経験を通して、子供のいない自分死ぬのは自分お金がなくなるときなんだな、と理解した。

 

今、嫁の母が倒れ、最善を尽くすと月に300万円かかると言われている。

完治の見込みは無いが、生命の維持はできる。

やろうと思えばいくらでも。

最低限+αくらいの生活しかしていない我々にとって、高額の支出意味するのは娯楽の放棄ではなく、義母延命意味するのは嫁と俺の延命可能期間の短縮である

では、誰をどれだけ延命することを選択するべきなのだろうか。

 

また、こうしたことを考えて来て、もう一つ、気になっていることがある。

俺にとっての嫁とその母の価値を比べるなら、当然、前者が勝る。

しかし、嫁にとって、俺と母の余命の価値はどうなのだろう。

嫁は、義母の数か月と俺の数か月のどちらを惜しむのだろうか。

義母の手を取り励ます言葉をかけながらも、そんな考えが頭から離れない。

  • 義母が延命治療したいなら義母と義父の金でやるべきだろ ただでさえ世代間格差で年寄りの方が有利だってのに 若い世代に重荷を背負わせるなら自分から死を選ぶのが真っ当

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